東城大学病院

□ありがちな夜。
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例えば職場に気になる相手がいて。
事ある毎に接触しては距離を縮めていて。
飲み会で隣の席を確保して、飲ませて酔わせて介抱して。
親切を装って近くのホテルを取って「ご休憩」。

笑いが出る程、よくある話だ。

「はい、着きましたよー、先輩」
「うん…ん?ここ、兵藤の家?」
「んな訳ないでしょう。何で僕の部屋に紫ののダブルベッドがあるんですか」
「あ、本当だ。紫」
そう言って少し笑った田口をその紫のベッドに座らせる。
「え?…じゃあここ誰の家?俺の家?」
「いやいやいや、違うでしょう。先輩の家ベッド紫なんですか?ホテルです、ラブホ。誰の家でもないですから」
「…ラブホ?」
「ラブホ」
「って、ラブホテル?あの、鏡張りとか、廻るベッドとかの」
「ええ、ラブホテル。ほら、ベッドの上だけ鏡張り」
ベッドは廻りません、と言った時には田口は頭を抱えて蹲っていた。
「…うわあ…一気に酔い醒めた…」
とてもそうは見えない。
「とにかく、寝て下さい。水飲みますか?」
「…いや、なんか体が酒臭いから、シャワー浴びたい…」
頼りない足取りで、田口はバスルームへと入って行った。
その後ろ姿を見送り、兵藤は溜め息を吐く。田口にそんなつもりは無いというのは重々承知しているが、シャワーを浴びてくるという響きに淫らな期待を禁じ得ない。
いつもコレだ。
やっと、気を許して貰えるようになったと思ったら、今度は無防備な態度で翻弄される。目の前で着替えたり、終電ないから泊めてくれないかと訊いて来たり、……人の気も知らないで。
寝顔を前に、触れるか触れまいか一人煩悶したことも一度や二度ではない。あと1センチの距離まで唇を近付けたこともある。けれど…。こんな自分を良識的と言うか臆病者と呼ぶか。
失いたくない物が、大きすぎるのだ。
シャワーの音が聞こえて来た。妄想を払い落とすように、頭を振る。ベッドに、田口の上着とネクタイが落ちていた。皺になってはいけないと思い、上着をハンガーに掛ける。あまり手入れの行き届いていない上着から田口の匂いがする気がして、少し、離せずにいた。
ガタンッ!
バスルームで大きな音がした。
「先輩!?」
後になって考えれば、何と大胆で非常識なことをしたのだろうと思うが、その時は冷静な判断が出来る状態ではなかったのだ。兵藤は駆け付け、迷いなくバスルームのドアを
開けた。

普通なら、この状況はコメディだ。
倒れたタオル掛け。右足の小指を押さえて蹲る田口。何とも分かり易く、如何にも田口らしい間抜けな状態。ただ、問題は…

白い背中、薄く骨の浮いた肩や膝や踝、滑らかに光る肌。濡れた身体は、一糸纏わぬ裸だった。
――落ち着け、俺。
目を反らし、出来る限り冷静な声で話し掛ける。
「先輩、大丈夫ですか?」
「……大丈夫…けど痛い」
こちらを見上げ、痛みを堪えて情けない苦笑いで答えたその目に、うっすらと涙。
…心拍数が急激に上昇。
田口はよろよろ立ち上がろうとして、やっと自分が後輩に全裸を晒していたことに気付き、慌てて手近にあったバスタオルで肌を隠した。
「…?兵藤?もう、大丈夫だから…」
いつまでも突っ立ってないで出てけよ、という言外の声に気付き、
「あ、すみません」
少し焦って出て行こうとした。未練がましく視界の隅に残した田口の姿に意識を集めていたら、再び立ち上がった田口がふらっとバランスを崩したのが見えた。
「先輩!」
急いで抱き止めると、濡れた髪が頬を叩いた。シャツ一枚を隔てて温かく湿った肌を感じ、上気した頬と緩く開いた唇に目を奪われた。一瞬にして全ての感覚器官が田口を認識し
、次の瞬間には身体と心の全てが田口を求めた。阻止する器官は皆無で…
「悪い、立ち眩んだ…何?兵藤…っ!?」
戸惑う田口を抱き締めて唇を奪った。それは『キス』というものとは別次元の、正に『奪う』としか表現出来ない行為。野生動物の捕食のように本能的で強引なものだった。
「んぅっ!?んっ、兵、藤っ…?」
もがいて逃れようとする唇に何度も喰らい付く。合間に響く濡れた音が狂暴な欲望を煽った。
「ちょっ…ッ!やめろ!離せ…!」
田口は全力で兵藤の胸を押し返し、離れようとしている。
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