京極・巷説の部屋

□すき。
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目眩坂を見上げて、立ち尽くす男が一人。余りにも微動だにしない様子に、声を掛けて良いものか躊躇われる。しかし、どちらにしてもその横を通らねば進めないわけで、関口は何時もの如くはっきりしない発音で、その背に呼び掛けた。
「…鳥口くん、どうかしたのかい?」
ゆっくり振り向いた青年は、関口を認識してもどこかぼんやりとした目のまま
「ああ、先生」
と意味の無い返答を返しただけだった。
「京極堂に行くのじゃないのかね」
「…はぁ。行く…んでしょうねえ…」
「…大丈夫かい?様子が変だよ、君」
「…変…ですよね。はぁ」
愈々変だ。関口は言葉を無くしてその横に立ち、何故か並んで目眩坂を見上げた。


一昨日のこと。
鳥口は何時もの如く、用も無いのに京極堂を訪れ、此方も何時もの如く本に没頭している主の顔を密かに眺めていた。
「…今日は、どうして此処へ?」
「え?ああ、いえ、その」
「暇潰しかい?」
「…まあ、そんなところです」
本当は、わざわざ暇を捻出して通っているのだが。
「カストリ誌の記者が暇だというのは平和な証拠だね」
鳥口の気持を知ってか知らずか、目線もあげずにそんなことを呟く。
迷惑がられていないということだけは分かったので、ほっとする。
そしてまた、静かな時が流れる。
にゃあ、と声が聞こえて石榴が庭から現れた。
「お」
鳥口は遠慮の無い手つきで石榴を抱き上げると、膝に載せた。
「よしよし。…綺麗な毛並だなあ」
中禅寺が、それを見て、微かに口元を緩めた。
「珍しい。そいつは中々人になつかないのだよ」
「そうなんすか?なんか光栄だなあ」
「榎さんなんかだと、声を聞いただけで逃げるんだ」
そう話す声がとても優しくて、…鳥口は胸が苦しくなるのを感じた。
「…そう、っすか」
石榴が見上げた。その目は、何処か主に似ている。
もぞもぞと動いて立ち上がり、鳥口の膝を降りて主の膝に登る。
中禅寺は何も言わないが、石榴が落ち着き安いように少し座り直した。
中禅寺は本を読んでいる。
石榴は目を閉じている。
鳥口は…中禅寺を見ている。
そんな空間。
それだけの時間。
悪くなかった。
そのまま時が過ぎて、もう会社に戻らなくてはならない時刻がきてしまった。
後ろ髪を引かれながら帰る鳥口を、中禅寺は珍しく玄関まで見送った。
「すみません、お邪魔しちゃって」
「構わないよ。本を読む邪魔はされていないからね。それより…暇潰しになったかい?」
少し見上げて問う目と口元に、邪な思いが一瞬よぎって、目をそらす。
「は、はい。あの、…また来ても、いいすか?」
声が少し上擦ってしまった。
「ああ。またおいで」
そう言って微笑する。
その顔は反則です、と内心叫んで鳥口は赤らむ顔を伏せた。その時、白く細い手が鳥口の胸元に伸びた。ゆっくりと、繊維を摘まみ、落とした。
「石榴の毛が着いていたよ。他にも着いているかもしれないから、………鳥口くん?」
手首を捕まれて、怪訝な顔で鳥口を見る。
真剣な目。
「師匠、ごめんなさい」
「え?…っ!」
次の瞬間、鳥口は中禅寺の身体を強く抱き締めていた。細い身が抵抗もなく腕の中に在る。ずっと、触れることも出来ずただ見詰めていた漆黒の髪が鼻先を擽る。呼吸のリズムが、やけにリアルだ。
「…師匠、僕は…貴方が…」
想いを紡ごうとした唇を、蒼白い手が塞いだ。
「!…ししょっ?」
「鳥口くん、それ以上は」
言わないで欲しい。と、目が語っていた。それは懇願に近い程に切なくて、鳥口は何故か泣きたくなった。
「師匠…」
「鳥口くん、すまない」
大きな子どもをあやすように、自分より高い位置にある頭を撫でる。その手の優しさに、鳥口は堪えきれず涙を溢した。
言葉にして伝えることも許されないのだろうか。鳥口は言葉を飲み込む代わりに、頼りない程細い身体を抱き締める腕に力を込めた。背中に、抱き返す微かな力を感じたのは、鳥口の願望からくる妄想だったろうか。
やがて離れて顔を見合わすと、中禅寺が少し笑った。
「…そんな顔で会社に戻ったら、何があったのかと思われてしまうよ」
中禅寺がからかうのも当然と言える、泣き腫らした目。
「うへえ。参ったなあ」
照れ隠しも兼ねて、少しおどけて言った。
ひやり、と頬に心地よい感触。
「し、ししょ…!?」
夏だと云うのに冷たい手。
「冷え症も、たまには役に立つんだ」
「師匠、あの、危険っすよ、その」
「…きっと、今の僕の行動には筋が通っていないね」
近づいて、離れる。触れて、拒む。
中禅寺の呟きに、鳥口は何も返すことが出来ない。
「師匠…」
「僕は、君の師匠なんかじゃないよ」
聞き慣れた筈の言葉が、今日はこんなに痛い。
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