東城大学病院

□哀しい恋の歌。
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田口は片付いた部屋を見渡し、一息吐いた。
本気を出して部屋の掃除をしたのなんか久しぶりだ。
意外に物は少なく、一日仕事を覚悟していたが実際には二時間弱で片付いた。
見苦しいところは無いだろうか。
自室の匂いは自覚出来ないと聞くから、念のためにファブリースを振り撒く。そんな自分が少し可笑しい。香でも焚こうか。それはやりすぎだな。
ふと、浮き足立っている自分に気付く。
――明日、桐生を部屋に招く。
初めてのことだ。そして

最後のこととなるだろう。

哀しい決心を確認するように、開け放った窓の向こう、遠い空に深呼吸をした。


如何にも洗い立てのシーツが気恥ずかしい。桐生はいつもにも増して愛しくて堪らないと言う様に甘く優しく、田口を抱いた。

迎えに行った空港で目が合った瞬間からずっと上機嫌だ。田口の部屋を訪れることを、とても楽しみにしていたのだと言う。饒舌に道中の出来事等を話して聞かせてくれる桐生に、田口の決意は何度も揺らめいた。

優しすぎる抱き方がもどかしい。
「…せんせッ…桐生、先生」
何も考えられなくなる程、奪ってくれたらいいのに。
「…公平」
低く甘い声が、囁いた。初めて呼ばれた名前。
嬉しくて、哀しくて、背中にしがみつく指に力を込めた。

《しがみついた背中に そっと爪を立てて
私を刻み込んだ もっと 夢の中へ》


「…え?今、何と…?」
信じられないという顔で桐生が問い返す。満身の力を振り絞って発した言葉。繰返し言うのはとても辛い。
「ですから…、もう、今日でお仕舞いにしましょう」
どうしても、目を見て言えなかった。
「どうして…?」
桐生の声が掠れている。
田口は、心を殺して出来る限りの冷淡さで短く答えた。
「好きな女性が出来ました」
沈黙。
空気が実際に質量を持ったかのように重く、田口の肩に頭にのし掛かる。
耐え難くなって続く言葉を探して口を開いたのと、桐生に腕を掴まれたのはほぼ同時だった。
激しく乱暴に抱き締められて、凍らせていた涙腺が決壊した。
「桐生先生、ごめんなさい」
身体を抱く腕に力が増された。痛い程、苦しい程。
「何を、謝るのですか」
激情を隠しきれぬ声で言うと、限りなく暴力に近い荒々しさで、桐生は田口をベッドに押し倒した。
先刻までの優しさが幻だったかのようだ。よく見ると、桐生の目も微かに滲んでいた。
「私に、田口先生を縛り付ける権利がないことは分かってます。けれど、…嫌です。離したくない」
抱き締められて、耳元で紡がれる言葉。悦んでいる自分に絶望する。「身勝手な」と怒れたら。「大人気無い」と軽蔑出来たら。
「…嗚呼、私は最低な男だ。田口先生、ごめんなさい、無理です。貴方を諦めてあげられそうに無い」
最低だ。嬉しい。田口は堪えきれず、嗚咽を漏らした。
「…桐生、せんせ、ごめんなさい…っ」
泣きながら抱き返す。桐生の腕に力が籠る。抱き締められる圧力、洗い髪の匂い、震える呼吸、体温と重さ。嗚呼、もう駄目だ。この身体が重なっている今この瞬間の為に、未来など棄てられる。
「桐生、先生…お願い…抱いて下さい」
小さく頷いた桐生が、首筋に唇を押し当てた。
田口の身体が、悦びに震えた。


《その手で その手で 私を汚して
何度も 何度も 私を壊して》


「っああ!…はッ…せんせ…」
「名前を…呼んで下さい」
「………恭一、さん…っ」
想いが、涙として身体から溢れた。止める術が分からぬまま、何度も名を呼ぶ。小さな小さな声で、吐息に混ぜて「好きです」と言った。聞こえないように、とても小さな声で。
思い切って一度だけ、その広い背中に爪を立てた。


《汗ばむ淋しさを重ね合わせ
眩しくて見えない闇に落ちてく》


落ちていく。
いつからか。
何処まで、落ちるのか。
この人は落ちるべき人ではないから、自分なんかが繋いでいてはいけないから、返そうと決めたのに。
…二人で落ちる闇が狂おしい程心地好くて。
泣きながら、唇をねだった。


《いつか滅び逝くこのカラダなら
蝕まれたい あなたの愛で》


求めれば求めるだけ与えられる激愛。きっと戻れない。あの桜並木で気付いてしまった時から、落ち始めてしまったのだ。


《ひらひら 舞い散る花びらがひとつ
ゆらゆら 彷徨い あなたを見つけた》


「恭一、さん…ごめんなさい…愛してます」
崩れ去った決意と共に吐き出した言葉を受けて、桐生はとても優しい微笑を見せた。あの桜吹雪の中で見せた、蕩けるような笑顔だった。
嗚呼、どうしよう。とても倖せだ。涙を止めることが出来ないまま、田口も微笑み返した。

end.

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