御宝本閲覧室

□*Reflection*
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*Reflection*


こんな反応は予想していなかった。
殴られるか、呆れられるか、最悪、何もなかったかのように無視されるか。
運賃はこれでチャラにしてやる、加納はそう言って、シートに突っ伏して沈没していた田口の顔を強引に持ち上げて唇を奪った。
「……」
気絶寸前で前後不覚になっていたのはこっちも同じだ。
冗談になる程度で済ませるはずが、つい本気になった。微妙な力加減ってヤツは心身共に万全でないと施すのは難しい。
だが、唇を離した後に笑えない結果になったのがそのせいだとは思えない。
しばらくの間、田口は俯いたままだった。混乱しているか、眠気で事態を把握できていないかのどちらかだろう。
両手で田口の顔を持ち上げた。が、加納の動きもそこで固まった。
「……!」
泣いているのかと思った。
いや、泣いてはいなかったが、限りなくそれに近かった。
苦しげに眉を寄せ、下瞼には赤みが注している。
(な、なにもそこまで嫌がらなくてもいいだろ……)
加納は愕然とした。が、それ以上に動揺していた。傷つけるつもりは、なかった。
「……先生」
「……」
田口は顔を背けると、のろのろと車から降りようとする。
「待てよ、おい!」
「言っておきますけど……私が乗せてくれって頼んだわけじゃありませんから。……貸しだなんて、思わないで下さいよ」
振り向かずに言い渡す。声が震えている。強がっているのは明らかだ。加納はあわてて田口の腕をつかんで振り向かせた。
「待てって! ……悪かった。そこまでイヤだと思わなかった」
これが女なら強く抱きしめてなだめてやるところだが、いまひとつそれが正解だという確信が持てない。
いつになく弱気になっているのは、徹夜で運転したせいだと思いたい。
田口はうつむいたまま答えない。さらに気が焦る。加納はいたたまれなくなった。
「……なあ、悪かったって。機嫌直してくれ」
何故自分がここまで、と思いながら田口の肩を放せなかった。
田口がふるふると首を振る。
「放して下さい。……加納さんには、関係ない」
「誰なら関係あるんだ?」
思わず大きくなった自分の声に驚いて、加納は小さく咳ばらいをした。
背中には、さっきからひとことも言葉を発しない白鳥の、好奇に満ちた視線を感じる。言えば言うほど足元の泥は深くなり、白鳥への借りが大きくなっていく気がする。
やがて田口の手が加納の腕をそっと払いのけた。体を返して、病院に続く坂道へ向かって
歩き出す。
「先……!」
「……」

朝靄のなかには、オープンシートのベンツと、無言の男二人が取り残された。



長い沈黙。
加納の手がゆらりと持ち上がり、胸を探って煙草を取り出した。
カチリ。ライターの着火音が響く。
さらに沈黙。
空気に極限まで重量感をつのらせたところで、白鳥がようやく声をかけた。
「…………で? どうすんの?」
「……バカヤロウ……このままで帰れるかよ」
舌打ちの代わりに、加納はくわえた煙草の先を噛み潰した。



田口は答えない。何も言わない。
「……っん」
抵抗されなかったのは、そうしなかったからか、できなかったからか。それが嫌悪なのか、痛みなのか。
確かめたかったのは、傷ついたプライドを癒すためだ。
それだけにしては、田口の唇は、やけに甘い。
「……」
路地裏の暗がりに、白い吐息が浮かび上がった。通り過ぎる車のヘッドライトが、瞬間、向かい合った二人の顔を淡く照らす。
田口は手の平で赤くなった目を覆った。
「……煙草吸った後に……こんな……加納さん……マナー最悪だなあ」
投げやりなつぶやきに胸を衝かれて、加納は思わず田口を掻き抱いた。
「煙草吸うのか、そいつ」
びくり、と腕の中で田口の肩が震えた。
(ビンゴ……)
悪いのは俺じゃない。だがプライドが修復できたかは微妙なところだ。
加納はくしゃくしゃと田口の髪をなでながら、子供をあやすように、そっと身体を揺らした。
「……先生。今夜は俺と寝よう。俺をそいつだと思えばいい」
口から出たセリフは、修復とは間逆の内容だ。驚いて離れようとする体を、一層強く抱いてやる。
田口の髪に唇を埋めながら、加納は妙に気持ちが浮わつくのを感じていた。


「……何がそんなに楽しいんですか」
「ん?……さあな。俺にもわからん」
助手席の田口がうんざりした顔で加納の横顔を眺める。相手は妙に嬉しそうだ。鼻唄でも歌いだしそうに。
「機嫌がいいなら、運転も優しくしてくださいよ……」
「安心しろ。俺の運転で死傷者が出たことはない」
「加納さんが怪我しても私は診ませんから」
「……それは困る」
「……運転に自信あるんじゃないんですか」
「……」


《続》
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