01/22の日記

20:35
胡蝶の夢【勝志摩】
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勝呂はぼうと妻の後姿を見ていた。せっせと何かを料理する手際は決して良いとはいえない。それでも勝呂のために一生懸命料理を勉強しているのを知っている。
今日は勝呂の好きなとんかつにすると張り切る妻の背を愛おしげに見つめて、首を傾げた。
俺は一体いつ結婚したのだったか。


「ぼぉん!できましたよ!今日のは自信作やねんで!」
「…もう坊やないて何度言わすんや」
「あ…つい癖で…へへ、竜士さん」

にこにこ嬉しそうに笑う妻がとても可愛く、ぶっきらぼうにしか物が言えぬ自分がとても憎らしい。それでも、揚げ過ぎでちょっと固いとんかつや太すぎるキャベツの千切りは紛れもなく自分を思って作られたもので、そんなことにいちいち感動してしまう自分は必死に仏頂面を取り繕う。こうでもしないと情けなくも笑み崩れてしまうのだ。

「どない?どない?」
「…お前、揚げ物はまだ早かったんとちゃうか」
「ええ?美味しない?」
「ちゃう。結構油跳ねとったやろ。手、火傷したんとちゃうか」

遠まわしな心配の言葉を口にすれば、妻の垂れがちな目がきょとんと瞬き、ふんわり幸せそうに細まる。妻の笑みをまともに見てしまった勝呂は必死に唇を引き結んで油でベタついてるとんかつを頬張った。

「ふふ、愛されとるなぁ」
「当たり前や。なんで結婚した思てんねん」
「えへへへへ」

幸せだ、この上なくそう思う。ずっと好きだった幼馴染と想いが通じ、こうして一緒になれて家庭円満。明陀も徐々に檀家が戻って寺の修繕に充分な金も入ってきている。
これ以上何も望むべくもない。勝呂の幸せは今ここにある。

だが、たまに霞掛かったかのように記憶が曖昧になることがあった。どうも時間の流れが朧気で、今が一体何年の何月なのか、果たして己は一体何歳なのかすら思い出せぬ時があった。記憶に優れた勝呂にしては在り得ぬ事に些か恐怖を覚えながらも、微睡みのようなふわふわした感情に流されて結局なあなあに毎日を過ごしている。

「次はもっと上手に作るさかい、美味しい言うてな?」

ふんわりと柔らかに笑う妻に、知らず勝呂の口元も緩む。
ここには、勝呂の幸せがあるのだ。



「……あ?」
朝の勤めで経を上げている途中、御堂に蝶が入り込んでいた。ひらりひらりと舞い遊ぶその様は艶やかですらあるが、虫嫌いの妻はきっと悲鳴をあげるだろう。
筋金入の虫嫌いな妻の泣きべそ顔を思い出し、くすりと笑った勝呂ははてと眉を顰めた。何故妻は虫が嫌いになったのだったか…

――、坊!逃げて!早ぅ!
――なんや、どないしたんや!その傷!
――あく、あくまや!逃げて!子猫さんと一緒に!

閃光のように脳裏に浮かび上がったのは十にもならぬ子供時代の思い出だ。そこで俺はあいつらと遊んでいて…

「せや、そん時の悪魔が虫やったんや。それで……!」

ぱちん、と電気が消えたかのように勝呂の頭に浮かび上がっていたものが消えた。さっきあれほど鮮明に思い出された事柄がすでに朧気だ。奇妙な焦燥感に襲われた勝呂は朝の勤めも放り出して妻の元に走った。

「ぼ、竜士さん?どないしたん。そんな血相変えて」
「お前!あん時の事覚えとるか!」
「あん時?」
「お前が虫嫌いになった原因や!おまえが悪魔に攻撃受け、て…」

勝呂の言葉はそこで途切れた。妻の眉尻に手を伸ばす。傷が、なかった。あったはずの傷跡などどこにも見られず、そもそも妻に本当に傷があったのかすら曖昧な勝呂はうろたえるしかできない。

「坊、どないしたん。あくまやなんて」
「悪魔は悪魔や!昔、お前が俺を庇って…傷、受けて…」
「もう、仮にも仏教なんやから悪魔やのうて悪霊言いよし」

大体いつのことやの。全然覚えてへんわぁ。そう言ってころころ笑う妻に、勝呂は取り残されたような気分になる。
そうだ、確かに己は仏教徒なのだから悪魔という表現はおかしい。だが勝呂はなんの疑いもなくそう思ったのだ。悪魔、サタン、祓魔師、およそ仏教には程遠い単語ばかりが勝呂の脳をぐるぐると巡る。だがそれすらも妻の微笑みに溶けて消えてしまうのだ。


あれからどれほどの時間が過ぎたか。何年も過ぎたかのように思えるが、或いは2〜3分程度しか経っていないかもしれない。何せここはぬるま湯のような世界で凡そ時間の感覚がない。気が付けば一日が過ぎて、我に返れば過去が思い出せぬほどに時が過ぎている。
勝呂がこの奇妙な状況を特に恐怖も覚えず受け入れていたのはひとえに妻の存在があったからだ。妻が傍で幸せに笑っているのなら何も問題はないように思えたから。
しかし、やはりというかこの状況に疑問を持ったのもやはり妻の存在からだった。

「竜士さん?どないしたん難しい顔して」
「…お前、俺と幼馴染やったな」
「なん?今更」
「昔のこと覚えとるか。子供の頃何して遊んだとか、そんなん」
「…昔のことはええですやろ」

明らかに明言を避けている。妻は過去のことに水を向けるとあからさまに顔を強張らせた。しかしそれすら勝呂の頭は疑問を抱く。

(あいつはもっと嘘が上手かった。あんなあからさまに避けたりなんてせぇへん、器用に話題を摩り替えて…あいつは、あいつは)

「あいつって…誰や」

ぱちん
頭の中で形成されていた何かが崩れていく気がした。
すでに勝呂の幸せはそこになく、音を立てて崩れていくのはただの夢の残骸だ。

「そうか…夢か」

これは勝呂の夢だった。幸せな、幸せすぎる夢、決して叶うことのない。
眼前に立っている妻を見やる。だって、そうだろう。そもそもここからしておかしい。
妻は、幼馴染の志摩廉造の顔をしていた。
勝呂の想い人は幼馴染の男で、どうしたって勝呂の妻にはなれないのに。

悪魔は居ない、生家たる寺は貧乏から脱して、愛したものの性別すら瑣末で曖昧なぬるまったい夢の中で、確かに勝呂は幸せだったのだけれど。

「志摩に会わな…」
ただそれだけを想い、勝呂は目を醒ました。残酷な事実ばかりが待つ現世へと。




「あ、坊。目覚ましはったんやね」

瞬いた。まだここは夢の中かと思ったが、どうやら勝呂は無事現世に戻ることができたようだ。その証拠に志摩は己を「坊」と呼ぶ。

「喉渇いてへん?水飲む?お茶の方がええやろか」
「……志摩」
「はい?」
「志摩」
「はいはい」
「…志摩」

なんやのー?と近寄る細身の体を力いっぱい抱きしめた。ごつごつと骨ばった男の体だ。だが、今はそれがありがたい。ここは夢ではないのだと感じられる。

「…坊な、悪魔に取り付かれとったんよ。正確には坊の枕が」
「…そうやろな」
「まるまる一日、眠っとってん。みぃんな心配してはったんえ」
「…そうか」
「もう夜遅いから…明日、ちゃんと顔みせたってな」
「…わかった」
「坊、坊?そろそろ苦しいわ、腕はなしたって」
「…お前は」
「うん?」
「お前はずっと俺の傍におったんか」
「………そら、看病くらいは、なぁ」
「…そうか」
「せや、お腹空いてへん?一日なぁんも食べてへんかったんやし、お粥やと足りひんやろか」
「…お前が」
「坊?」
「お前が女やったらよかったんか」
「 ぼ」
「お前が女やったら俺は、俺もお前も幸せになれて」
「……坊、手はなして」
「全部、なんもかんも上手くいったんか」
「坊」

静かな声に明らかな怒気が混じった事に気付き、はっと顔を上げた。
しかしそこには柔らかな笑みを湛える志摩がいるばかりだ。怒りの感情なんてどこにもない。

「坊、変な夢見たんやろ?若先生が言うてはったわ。その人が一番幸せな事を夢見させて戻ってこれんようにする、て」
「…おん」
「坊、幸せやったん?」
「…ぬるま湯みたいやった」

ふは、と噴出して志摩は勝呂をきゅうと抱きしめた。しなやかな筋肉がついた細い腕はやや苦しいほどの力で勝呂を締め上げたが、勝呂は何も言わない。

「戻ってきてくれて…良かった…」

耳元で聞こえたその声が湿っていた気がしたのは、勝呂の都合の良い妄想だろうか。
(まだ、夢なんかな…)
夢なのだとしたら、夜が明けるまでは許される気がした。
ひっそりとした夜の帳の中で、二人は子供のように手を繋いでいた。
空が白み、夜が明けるまで。






おらどうだコレぇ!甘くね?甘くね!?
自信を持って勝志摩といえるよ!
しゃばけシリーズの『ころころろ』を読んだ記念。佐助の胡蝶の夢な話読んで超滾った。こういう話大好き!
でも一番滾ったのは神様と普通の娘のすれ違いの話だけどね。

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