小説(忍たま)

□日常非日常
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只、恐ろしかったのだ。

カチカチと奥歯が鳴り止まず、自然と足からは力が抜けてその場にへたり込んでいた。
逃げ出したかった。でなければ耳を塞ぎ、目を閉じ、後ろを向いて、全てを否定したかった。だが腰が抜けた状態ではそれは叶わず、目だって閉じることができない。身体がまるで自分の物じゃないようだった。身体だけでなく、頭までも。
ああ、自分じゃなければ良かった。こんな考えを抱いたのが自分でなければ。
浪人に襲い掛かられたとき、俺は内心で確かに土井先生に助けを求めたのに。

「私の生徒に何をしている」

先生が、恐ろしい。
こんな感情は嘘っぱちだと否定したいのに、震える手足が、鳴り止まぬ歯の根がオレの中の恐怖を肯定する。
(ちくしょう…誰より好きな人なのに…)
ぽとりと目から涙が落ちた。恐ろしくて泣いたんじゃない。これはきっと悔し涙だ。
ぎりりと歯を強く噛み締め、無理矢理歯の根のなる音を止めた。土井先生を見やればやはり背筋に冷たいものが走るようだったが、隣で震えている乱太郎としんべヱの手をぎゅうと握り締めて、目を逸らすことはせず、睨みつけるように先生だけを見ていた。
あの人は、今、俺たちを守ってくれている。




いつもの三人が学園長に頼まれて、六道辻衛門の所へ使いに行ったその帰りだった。彼の有名な刀鍛冶の元には多くの剣豪が刀を求めてやってくる。おそらくそんな剣豪の一人だったのだろうと思う。町からかなり離れ、森に差しかかろうとした時に行く手を阻まれたのだった。
すわ盗賊かと見やるも、その風体はなかなかのもの。着物は町民が着るようなそれではなく、布地からして出すところに出せばなかなかの金になりそうなものだった。また、腰に差された一振りの刀は鞘に収まった状態なれどその圧迫感は身を切るようであり、知らずに乱太郎はごくりと唾を飲み込んだ。
「よぉ、坊主。お使いかい?」
「うん!学園長のお使いでねぇ〜」
「しんべヱ!あ、じゃ、じゃあ急ぐんでこれで失礼しまーっす」

素直に答えようとするしんべヱを遮ったのはきり丸だ。慌てたような口調で、疑問に思って伺えばきり丸はどこか怯えるように男の目を睨んでいる。
乱太郎は首を傾げながらも男の目を見て、凍りついた。
「ふぅん?そうか、急いでるのか…」
「そそ、急いでるんだ。だからそこを退いてくれないかな〜って」
乱太郎は声を出すことができずにいた。男の目、あれは人間のそれでない、まるで獣だ。一人分かっていないしんべヱは暢気に「おなか空いたぁ」と呟いている。その図太さが今は只管羨ましかった。
「そうか、急いでるのなら仕方ないな…」
圧迫感が僅かに消えたようで、乱太郎はほっと息を吐いた。きり丸も相当無理をしていたようで、こめかみから汗が一筋流れるのが見えた。
ああ、これでやっと帰れる。そう思った自分は甘かった。

「ならすぐに斬ってやるよ」

破裂するように広がった殺気に三人は成す術もなく呑まれた。
息が出来ず、手足も動かない。あのきり丸すらぱくぱくと口を動かすだけで、そこからは掠れた様な吐息しか出てはこなかった。しんべヱは何が起こったのか分からぬままぺたりとしりもちをついている。
「ゆぅっくりな、順番に、手足を切っていってやろうかと思ってたんだが…急いでるのならしょうがねぇなぁ…」
男がすらりと刀を抜いて、一歩一歩近づいてくる。抜かれた刃は男の殺気を受けて光り輝くようで、一層乱太郎たちを恐怖させた。鞘に収まりきらぬその鋭気といい、恐らくは妖刀と呼ばれる類のものだろう。乱太郎は喉を鳴らした。唾を飲み込もうとしたが口の中がからからに乾いていたのだ。
「試し斬り、させてくれや」
「っざけんな!誰が好き好んで斬られてやるかよ!」
「きりちゃ…」
「逃げるぞ乱太郎!しんべヱ!」
「あっ待ってぇ」
威勢よく啖呵をきったきり丸はしりもちをついたままのしんべヱの手を引いて走り出した。慌てて乱太郎も追いかける。
足には自信のある乱太郎だが、恐怖のため足が震えて上手く地面を蹴れない。きり丸も気丈に言い返してはいたが、乱太郎と似たような状態だろう。しんべヱを急かして懸命に走る。
「走れ!走れ!!」
「急いでしんべヱ!!」
男の息遣いが背後から聞こえるようで、息を詰めて我武者羅に走った。だが足に力を込めれば込めるほどその力は空回りするようで、焦りばかりが先走る。乱太郎ときり丸は必死にしんべヱを引っ張った。だが、しんべヱは緊張と焦りからか遅い足がますます遅くなってて、男に追いつかれるのも時間の問題に思えた。
「ぅあっ」
「しんべヱ!!」
石に足をとられ、しんべヱが転んだ。はっと振り返れば男は思った以上に近寄っている。ぬらりと光る刀が目を焼いた。
「……っひ、」
「逃げんなよ…急いでるんだろう?安心しろや、あっという間だ」

「何があっという間だと?」

聞き覚えのある声に三人の顔が輝いた。いつの間に現れたのか、そこには担任の土井半助が生徒を庇うように男と対峙していた。
「せんせっ…」
咄嗟に名を呼ぼうとしたきり丸だったが、その声はすぐに消えていった。目を見開いて土井先生を凝視したまま動かない。
ぞくん
すぐに乱太郎も気付いた。その場の異常な冷気に。
男の殺気など比ではない、心臓の弱い人ならその気迫だけで逝ってしまいそうな、そんな鋭気が土井先生から発せられていたのだ。
男は目を見開いて、息を切らしている。滝のように汗をかきながらも土井先生から視線を外さない、否、外せないのだ。
「私の生徒に何をしている」
「ち…ッ」
勝ち目がないと見たか男はすぐに身を翻したが、次の瞬間男の足元が爆発した。爆発といっても、それはただの爆竹で男にダメージはほとんどなかったのだが、慌てふためいた男は刀を取り落としてしりもちをついた。
土井先生は男の足を踏み潰して、ただ立っている。苦無も、刀も、チョークすら持っていない丸腰状態であるのに、何故か首に刀を当てられているような気鋭がその場の空気にはあった。
「刀を二度と持たぬと誓うか」
「あ…?」
「誓えぬのなら、このまま踏み潰すが」
ぐ、と手の上に置かれた足に重みが増す。利き手を砕く気だと気付き、浪人の男は一気に青褪めた。
「やっやめろ!」
「なら、誓えるか」
「誓う、誓う!」
男は刀を鞘ごとその場に捨て置き、遮二無二駆け出した。
一刻も早く、この場から離れたかったのだ。


「せ、」
男が去って、先生が刀を拾い上げて鞘に戻す間、乱太郎、きり丸、しんべヱは一言も喋れないでいた。土井先生であると分かっているのに、そこにいるのが知らない忍であるような気がして恐ろしい。必死に勇気を振り絞っても、出てきたのは精々さっきの一文字だ。情けなくも震えていた。
くるりと背を向けていた先生がこちらを向く。その一動作に大げさなほどびくりと震えて、思わず恥じた。きり丸の手がぎゅうと強くこちらの手を掴む。大丈夫、土井先生なんだから。
「せん、せい…」
声に出したのは、意外にもしんべヱだった。つぶらな目一杯に涙を溜めて、見上げている。先生の顔は丁度黄昏時でもあったことから、夕日で判別できなかった。そのことがさらに恐怖を増長させる。
「お前ら…」
す、と伸ばされた手に皆がビクついた。伸ばされた手が宙で止まる。
怖くないのに、怖い。
撫でて安心させて欲しいのに、触れて欲しくない。
笑顔を見せて欲しいのに、先生の表情を見るのが怖い。
矛盾した思考に囚われて唇を噛んだ。弱虫な自分が只管憎かった。

「ごめんな」
ぎゅ、と抱き寄せられる。驚いて身体が跳ねたが、すぐに振りほどけるほどには弱い抱擁にやりきれなくなって、逆に擦り寄った。
「怖がらせて、ごめん」
すぐに強く抱きしめられて、ほっとしたのと同時に涙が溢れた。三人纏めて抱き寄せられた身体は温かくて大きくて、土井先生に間違いなかった。
しんべヱも、きり丸も、私も、先生の身体にかじりついて暫くは離れずにいた。怖かったのだ、恐ろしかったのだ。その気持ちがどうしようもなくなって、土井先生にしがみつく以外に何もできなかった。
その場には既に冷えた空気はなく、三人のしゃくり上げる声だけが響いている。


「この辺りに辻斬りが出るという話しを聞いて慌てて出てきたんだが、間に合ってよかったよ」
疲れたように笑って、土井先生はしんべヱを背負いなおす。
あの後、しんべヱは泣きつかれて眠ってしまい、苦笑した先生が負ぶうという形で学園に向かっている。
「もうちょっと早く出てきてくださいよ〜俺たち死ぬところだったんですから!」
「結局助かったんだからいいじゃないか」
きり丸と先生が軽い調子で言い合っているが、きり丸の目は赤く腫れていた。多分私も同じ状態なんだろう、三人でわんわん泣いてしまったし、土井先生の服に思い切り涙と鼻水を沁み込ませてしまった。すぐに謝ったが、土井先生はちょっと笑って、頭に手を置くだけで済ましてくれた。
「あの、刀はどうするんですか?」
「ん?ああ、これか」
先生の腰には刀が下げられており、それはさっき男が捨てていった妖刀であった。
「まぁ、そのままにもしておけないし…学園長に預ける形になるかな」
「えー!売ったら良い金になりそうなのに!」
「阿呆!」
「痛ってェ!!」
ゴツンときり丸の頭に拳骨が落とされる。きり丸はしゃがみ込んだが、その口元がこっそり緩んでいたのを知っている。
これでいつもの日常に戻れる。
きり丸のそんな思惑に気付いて、乱太郎は笑い出したくなった。

また明日も愛すべき日常がやって来る!

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