話を聞けばなんとも単純な事件だった。
陸家に恨みを抱く者が陸抗の護衛をそそのかし陸抗を連れ去った。
陸抗は孫策の孫であり、その大事な子供を失ったとあっては孫家と陸家の間柄も只では済まない。あとは頃合をみて陸抗を助けたとみせかけて孫家に帰せば自分達にも孫家と係わりが生まれる。何とも浅はかな作戦。

だが、彼らにも予想外の出来事が起こる。
陸抗を乗せた馬車が盗賊に襲われ、護衛は殺され陸抗自信も行方知れずになってしまったのだ。
主防犯は恐れを成して逃げようとしたところを捕まり、全てのことを白状した。


全ての出来事があの日に繋がる。

わかっていたはずのことを知らないフリをしてずっと側に置きたかった‥


『涙の訳』


郭嘉と陸遜をつれて中庭を通り過ぎる。典医の部屋の前を通り過ぎると目に入った陸抗が隠れた茂み。

あの日抱き上げた小さな体は震えていた。
知らず拳を握り締めていた。先程から郭嘉も陸遜も何も言わない。
ただ来るべきその時を思っているのだろう。
それは曹操とて同じことだった。この、一歩一歩があの子を遠ざけていくのだ。

選ぶのはあの子。
わかってはいる。それでも、曹操は立ち止まるわけにはいかなかった。


「ここだ。陸遜は、暫し待て。」

曹操は部屋の前で警護を行なっていた兵士を下がらせ、震える手で扉を叩く。

「入るぞ」

返事を待たずに扉を開ける。
いつもならば笑みをたたえて開くはずの扉も、自分がどのような表情をしているかわからない。
後ろからついて来ている郭嘉が息を呑むのがわかる。
陸抗は寝台に腰掛けて羊コと書簡を読んでいたらしい。曹操に気付くと立ち上がり、嬉しそうにパタパタと駆け寄って来た。

「ご無事で何よりです」

曹操は出逢った頃よりも成長した少年を抱きしめる。
抱きしめた感触だけでわかる。戦に出る前よりも痩せただろうか?あんなに食事をとるようにと言っているのに、また食べなかったのだろう。
曹操はその体を強く抱きしめる。
愛しさが込み上げてきて唇を噛み締める。
離したくない。
手放したくない。
願えばそれは叶えられるだろう。しかし、それでは駄目なのだ。

「――…曹操様。」

心配そうな郭嘉の声に曹操は「ああ」と小さく返事を返し、陸抗を開放する。
温もりが離れていくのが惜しい。それでも、ここまで来たのだ。
陸抗の頬を撫で心配そうな表情を浮かべる唇に軽く口付ける。触れるだけのソレはとても熱かった。

「待たせてしまった。約束を、果たそう‥。陸遜、入ってくると良い。」

『陸遜』と言う言葉に陸抗の体が強張るのがわかる。
扉が開いて陸遜が部屋へと入ってきた。
曹操は自らの背に隠れようとした陸抗の体を前に出す。

陸抗の姿を見て陸遜の表情が緩む。
陸遜は陸抗から5歩ほど前で立ち止まり、成長したその姿に目頭が熱くなるのを感じた。

「…なんと、言ったら良いものか‥」

やっとの思いで搾り出したのだろう陸遜の声は震えていた。
何も言えない。何を話したらよいのかわからない。
曹操も、郭嘉も。羊コでさえ、何も口に出すことが出来なかった。


「――…父上。」

沈黙を破った声に陸遜は顔をあげる。そこには瞳から大粒の涙を零す陸抗の姿があった。
郭嘉は思う。やはり‥と。
曹操もまた悲しそうに、だが何かを吹っ切ったような表情で二人を見守る。

長い時間がかかったと思う。
陸遜は震える足を叱咤し、一歩、また一歩脚を踏み出し陸抗に近付き腕を伸ばした。
一度は離れてしまった大切な存在を抱きしめた。


――‥言葉などいらなかった


「…奉孝。」
「はい」
「殴らんのか?」
「今日だけは特別です。」

抱きしめあったまま動かなくなってしまった二人を優しく見守りながら、曹操は郭嘉の肩を抱く。
いつもなら「セクハラです」とか言って殴られるのだが、今日は殴られない。

「はい、これ。」

郭嘉から差し出されたそれを曹操は受け取り無言で顔を覆う。
そうしないと泣いた姿を見られてしまいそうだったから。
羊コは固まったままだが放って置くことにした。



歳を重ねる毎に、陸抗の中で曖昧となっていた記憶は少しずつ戻っていった。
しかしそれも完全ではなく、ただパズルのピースが散らばってしまった時の様に、断片的に交差し夢となって時折現れる。それだけだった。
そして陸遜の姿を見たときソレは一斉に合わさり一つの形となった。

いつかはと覚悟も決めていた。

曹操が連れてきたということは、そういうことなのだろう。

『いつかお前の家族の下に帰してやるからな!』

あの約束はなんと残酷なのだろう。
それでも嬉しくて堪らない。
相反する思いを胸に抱きながら陸抗は数年ぶりに父の腕の中で意識を手放した。





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