曹操軍が赤壁で敗れた。

その報が陸抗の耳に届いたのは羊コと共に読書をしていた時のこと。
主は無事だが怪我をしているらしいとの兵士からの情報に、陸抗は青ざめカタカタと震えた。

「大丈夫ですよ」
「叔子殿…」

震える肩を羊コが優しく抱き、それでも陸抗は嫌な考えに囚われた。
一刻も早く主に…曹操に会いたい。会って、その無事を確認したい。
繋いだ手はいつもよりも強く握り返された。

そうして数日後曹操は軍を引き連れて帰って来た。武将達は皆無事だったが、行った時よりもずっと兵の数が減っている。そのことが堪らなく陸抗の心を乱した。

陸抗は部屋から飛び出すと廊下の影から主の姿を探した。見知った武将達が通り過ぎ、そうして見つけた主の姿は今までにない程に疲弊しきった姿。
その後ろを青い旗をもった一軍が着いていく。

「呉の使者達だそうですよ」

後方からの声に降り返るとそこには険しい表情を浮かべる羊コの姿があった。

「さあ、曹操様が後でおいでになるそうですから、それまではゆっくり休みましょう?」

倒れてしまっては会えませんよ?と言いながら、羊コは陸抗の肩を抱き室内へと戻ろうと促した。
だが陸抗はピタリと止まったまま動こうとしない。その視線の先には呉の一軍、その中でも馬に乗った一人の人物を一様に見詰めている。

「知っている気がします…」

ポツリと漏れた言葉と、頬を伝う涙。羊コはまるでその姿を隠すかの様に陸抗の体を優しく抱きしめ、そのまま体を抱き上げると室内へと戻った。

****

敗戦後追撃の手を休めない呉蜀の連合軍。追い詰められた曹操に、一人の男が交渉を持ちかけてきた。

「一目会いたい者がいるのです…」

変わりに呉は追撃を止める。その条件は曹操にとっては苦渋の選択だった。それでも疲弊しきった兵達にこれ以上の追撃は痛い。

「その者が拒めば会わせるわけにはいかんが?」
「それでも…」

会いたいのです。そう言った男の瞳には僅かな希望。

そこで曹操は一つの大きな間違いをしていたのだと、そうして其れは喪失を意味しているのだと気付いた。

***


「大丈夫ですか?」
「ああ…」

自室に帰って早速乗り込んできたのは郭嘉だった。恐らく件の人物のことだろう。
汚れた衣服を変えた曹操は郭嘉を抱き寄せた。

「…殿?」
「なあ奉孝。失うのが怖いと思ったのは、いつぶりだろうな?」
「そんなの私に聞かないで下さい」

ずっと気付いていた。気付かないふりをしていた。

「あの子が選ぶことを、俺は止められない。まだまだ弱いな…」

自嘲気味にポツリと漏れた言葉。聞かない不利をして郭嘉は弱った主の背を優しく数度ポンポンと叩く。

自分とて別れは悲しい。慣れたものだと思っていたが、どうやらそうもいかないらしい。

「…寂しく、なりますね」


全てを知った時あの子は怒るだろうか?

そうして去ってしまうのだろう

帰って行くのだろう


本当の家族の下へ


「それがあの子の幸せならば…」


ずっと願っていたのはあの子を手に入れることではなく、あの子の幸せだった。






偶然手に入れた華は枯らしてしまうには惜しい程に、美しかった









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