078 シャングリラ後日談
□不撓不屈
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仕事が片付いたのは定時十分過ぎだった。昨日と違って空がまだ明るく、それだけで清々しい気分になる。携帯を見たが、翔くんからは何も連絡がない。私の方が早かったか、と自動販売機スペースで缶コーヒーを買った。ベンチに腰掛け、終わったよ、とラインしようとすると、ちょうど向こうから翔くんが走って来た。
「お疲れ様です!!」
「お疲れ……。どしたの? 慌てて」
「上がろうとしたら片桐さんが通り過ぎてくの見えたんですよ! 置いてかれるのかと……」
「置いて……子供かっ!」
一緒に買っておいた翔くんの分の缶コーヒーを差し出した。
「今開けたとこだから、もうここで全部飲んでいい?」
「はい……俺もいただきます。ありがとうございます」
二人してベンチに座ってコーヒーを飲む。そこに日下さんが通り掛かり、翔くんがぱっと立ち上がった。
「お疲れ様です!」
「ああ、お疲れ。ん? 井関お前、まだ片桐に付きまとってんのか?」
翔くんはぐっと言葉を詰まらせた。日下さんは呆れたように頭を掻いて私を見た。
「片桐も、迷惑なら迷惑って言えよ。言いにくいんなら俺に言ってくれりゃ裏でシメとくから」
「いや勘弁してください……!」
「大丈夫です。迷惑な時はちゃんと突っぱねてますから」
「片桐さんっ!」
「はは、頼もしいな。じゃあお先」
「お疲れ様です!」
日下さんは手をヒラヒラ振って去って行った。その後も、コーヒーを飲み終わるまでに何人もの同僚や先輩や上司を見送り、その度にからかわれ、清々しい気分はすっかりどこかへ飛んで行ってしまった。
「……あんまり、会社では一緒にいない方がいいかもね」
呟くと、翔くんが勢い良く私に向き直った。
「何でですか!?」
「だっていちいちうっとーしいじゃん! 関係がバレたらもっとうっとーしくなるよ。休憩中とか終業後だけじゃなく、仕事の会話してるだけでも何か言われそう……」
「俺は全然うっとうしくないですけど……」
「メンタルつよ……」
コーヒーを飲み干し、立ち上がって伸びをした。
「何か食べに行く?」
「はいっ!」
「でも、仕事の後でご飯行くのは時々にしようね」
「いや何でなんですか!?」
「だって、昨日みたいに残業した後ならまだいいけど、今日は時間も早いし、その辺でご飯食べてたら誰かに見られるじゃん!」
「いいじゃないですか!」
「それにお金ももったいない」
「……確かにそうですね」
しゅん、と肩を落とす翔くんに、吹き出しそうになる。その肩をぽんと叩いた。
「さっ、行こ! 今日はあんたの行きたいお店でいいよ」
「はいっ」
会社を出るともう同僚や先輩や上司に会うことはなくなった。ほっとする一方、しょっちゅうこんなことしてちゃバレるのも時間の問題だなあ、と心配になる。そんな私の心中にはお構いなしに、翔くんは楽しそうに携帯を取り出した。
「仁美さん、どんなとこでもいいんですか? キライな食べ物とかあります?」
わざわざ検索してくれるのか、と私も嬉しくなった。
「うーん……高級なフレンチとか日本料亭とか、お堅いとこは苦手かなあ。あとは何でもいいよ」
「いやー、俺もそーいうとこは苦手ってか、お金もないし行けませんね……」
そう言って、翔くんはクスッと笑った。
「なに?」
「いえ……昨日、一応、付き合って初めてのデートだったのに大衆的な居酒屋だったし、今日のお昼も付き合いたての彼氏の前でラーメン選んでたなあって思って」
かっと体が熱くなった。そんなこと、全く考えもしなかった。いくら年下の子だとは言え、もう少し気を遣えば良かったのかな。
「……いやだった?」
「あ、すみません、いやじゃないんです! そういうとこが好きなんです」
そう言って翔くんはニコッと笑った。
「おしゃれなところもいいんですけどね。でも俺そんなとこ詳しくないし、仁美さんがああいうお店や料理を喜んでくれる方だっていうのが嬉しいんです」
うーん……ほめられてるのかなあ……。
複雑な気持ちになりながらも、まあ後で化けの皮が剥がれるよりはマシか、ととりあえず前向きに捉えることにした。翔くんは本当に嬉しいようで、うきうきと尋ねて来た。
「牛丼家とかラーメン屋とか、ひとりで行けますか?」
「ひとりではハードル高いかなあ。男の人がさっと食べてさっと帰ってくイメージだもん。行きたい気持ちはあるんだけどね」
「じゃ、また一緒に行きましょう。今日はもうちょっと落ち着いて話せるとこ探します」
そうして翔くんはわざわざ予約の電話を掛けてくれた。少し歩きますけど、と申し訳なさそうにする翔くんと十五分ほど歩き、到着したのはダイニングカフェだった。「おしゃれなところなんて詳しくない」などという台詞を疑いたくなるほどおしゃれな雰囲気に圧倒された。
「かわいいお店! よく来るの?」
「いえ初めてです。思ってたよりしゃれてるなぁ……ちょっと緊張します」
正直な回答に笑いながらお店の扉を開けた。インテリアも凝っていて、観葉植物や様々な形の照明や色とりどりの絵画、並べられたお酒の瓶や本を眺めているだけで楽しい。
「こういうお店なら、生じゃなくてワインにしよっかなあ」
ソファ席に通されメニューを眺めながら言うと、翔くんが感嘆の声を上げた。
「ええっ、かっこいい。俺ワインのおいしさにまだ目覚めてないんです」
「私も飲むようになったのここ1年くらいだよ! 焼酎とか日本酒はまだあんまり飲めないけど」
「俺は焼酎も日本酒も飲みます。ハイボールは飲めますか?」
「飲むよ! でもコークハイとかジンジャーハイとかの方が好きかな」
あれこれ悩んだが、結局私は赤ワイン、翔くんは生ビールで乾杯した。まだ前菜も届いていないのに、翔くんはグラスを置いて真剣な顔で身を乗り出して来た。