078 シャングリラ後日談

□天邪鬼
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正直言うとまだ話し足りなかったが、自分から「今日は早めに帰ろう」と言った手前、一時間ほどで切り上げることにした。今までは、帰りが一緒になっても、さすがに同じ電車にまで着いて来ることはなかった翔くんだったが、方向は反対なのに「心配なので送ります」と今日は頑ななので甘えることにした。アパートの前に着くと、急に翔くんは黙り込んでしまった。どうしたの? と尋ねると、彼は言いにくそうに口を開いた。

「仁美さん、一人暮らしなんですよね……」

「え? うん」

「危ない目に遭ったことないですか?」

「えー、まあ、今んとこは……」

なんだろう? と思った時、翔くんがとんでもないことを言い出した。

「俺のことここに置いてもらえないですか?」

「……は? 一緒に住むってこと?」

「はい」

「絶対嫌絶対嫌」

「なんで2回も!?」

「だって毎日会社で顔合わすじゃん!」

「そうですけど、別に寂しいからじゃなくて、心配なんですよ!」

「イヤだ私、同棲なんて! 側にいること当たり前になっちゃうじゃん!」

翔くんはまた子犬のような目で見上げて来た。

「……そんな顔してもダメだから!」

「……時々お邪魔するくらいはいいですか?」

「……時々ね。時々だからね」

「2回言わないでくださいよ……」

そう言うと、翔くんは繋いでいた私の手をぐっと引いた。そのまま抱き締められ、ただでさえ暑いのにもっと体が熱くなった。

「……今からはダメですか?」

「だめ! 絶対だめ絶対だめ!」

「うわ、3回! なんでですか!」

「だってそんなつもりじゃなかったし! 掃除もできてないもん!」

「そんなの気にしませんよ!」

「私がイヤなの! お願い。ちゃんと片付けるから、また改めて来て……?」

腕から逃れて、目を見つめて言った。翔くんはそれには答えず、もう一度私を抱き締めた。

「……仁美さん、大好きです。マジで夢みたい……」

う……。

もう、この子は何回「好きです」って言ってくるんだと呆れそうになるが、その一方で申し訳ない気持ちに襲われた。

「……翔くん」

「はい」

「……えーと、あのー……」

ゴニョゴニョ言い淀んでいると、訝しむように腕が緩められた。目を瞑って深呼吸し、思い切って言った。

「……好き。私も……」

言い終わるか言い終わらないかで、今までで一番強い力で抱き締められた。

「わあっ!」

「ああ……仁美さん、ありがとうございます!! 俺も……」

髪に手を差し入れられ、首筋に顔を埋められた。

や、やだ、どうしよ。めちゃくちゃ汗かいたし、私絶対臭い!

抱き締め返すことも拒むこともできずに固まっていると、翔くんが不安そうな声を上げた。

「震えてる……緊張してます?」

「……うん……」

「可愛い……」

「ちょ、ちょっと放して! 汗だくだし臭いからっ!」

「そんなことないです」

ぎゅっと腕に力を込められ、ヤバいヤバい! と翔くんを押し戻した。

「何するんですか!」

「こんな、仕事終わりにやだ! 化粧も髪も崩れてるし、もっといいコンディションの時に……」

「気にしませんってば!」

「もう! そろそろ帰ろ? もう22時半だから!」

距離を取り、はーっと息をついて両手で頬を覆っていると、翔くんがクスッと笑った。

「わかりました。今日はありがとうございます」

「うん……おやすみ」

「仁美さん」

顔を上げると、いつの間にか距離を詰められていた。今度は避ける間もなかった。唇が離れ、私を見つめる翔くんの目は濡れていた。

「約束」

もう一度キスされた。固まるどころか、心臓さえ止まってしまったように感じた。

「おやすみ。また明日」

そう言って、翔くんは笑って私に手を振った。

もう、もう……。
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