078 シャングリラ後日談
□ビターアンドスイート
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部屋に戻り、お茶を淹れてソファに座ると、達樹くんは私の肩をぐっと抱き寄せた。
「菜々ちゃん。元気ないね」
「えっ!」
「やっぱり、迷惑だった?」
「ち、違うよ! うれしいよ!」
「さっきのは嘘じゃなかったけど、今のは嘘だな」
鋭い目つきに、何も言えなくなる。その表情は、達樹くんというより……俳優・坂井達樹のそれだった。
「……嘘じゃない……。でも……元気がないのは、ほんと……」
呟くと、達樹くんは目を丸くした。
「体調悪かったの? ごめん……大丈夫?」
「あ……体は元気なんだけど……」
「どうしたの」
私の顔を覗き込むその目は、坂井達樹ではなくて達樹くんのそれに戻っている。
「あのね……悩みがあって……」
「悩み……?」
「うん……あの……ええと……もうすぐ、バレンタインでしょ? 達樹くんに、何を贈ればいいのかなって……」
手を弄びながら言うと、達樹くんはぶはっと吹き出した。
「菜々ちゃん、こえーよ!! 何かと思ったわ!!」
「なっ……なんで!? 私、真剣なんだけどっ!!」
「あー、俺の誕生日ん時みてえ。いや、あん時より数段トーン暗いから、マジで何かと思った。ビビったあ……」
達樹くんは文字通り胸を撫で下ろした。
「だって……だって! この前の合コン……の時、怒らせちゃったし、悲しませちゃったから、ちゃんとお詫びしたいし……でも、どんなものがいいか、検討もつかなくて……あれから毎日、悩んでるの!」
「大げさだなあ……まだあと1ヶ月くらいあんじゃん! あと1ヶ月その感じで悩んでたら胃に穴開くって!」
「たった1ヶ月だよ! 人気のお店のチョコとかだったら、たぶんそろそろ予約始まるし……」
「え!? マジ!? そーなの?」
「そーだよ! でも、達樹くんみたいな人は、毎年たっくさんチョコもらってるだろうし、チョコなんて飽きちゃってるかなーとか、もう悩みすぎて……」
「いやいや、そんなことないよ!」
「えー!? トラック何台分とかもらうんじゃないの!?」
そう言うと、達樹くんは目を泳がせた。
「あー……こんなこと言うとあれだけど……そういうチョコは、俺の口に入ることは、まあないね。ほんと、申し訳ないんだけど」
「えっ……。あ、危ないってこと?」
「うん、何が入ってるかわかんないから。返品させてもらってると思うよ」
「おおー……芸能人……。盗聴器とか、発信器とか、入ってたりするの?」
「そういうんならまだいいだろうけど、口に入れるものに何かされたら、最悪命も危ないしこえーよな。俺は直接食らったことはないけど、他の事務所の人とかで、話には聞いたことあるよ。バレンタインチョコだけじゃなく、基本、ファンの人からの贈り物は、食べ物とか生物とか現金とか、お断りしてるけどね」
「あ……そっか。ホームページに書いてるもんね」
そっか……悩みすぎて、すっかり忘れてた……。
それなら、尚のこと悩むなあ、と思っていると、達樹くんがまた私の顔を覗き込んだ。
「……だから、菜々ちゃんのチョコが欲しい。中学生みたいなこと言うけど……作って欲しい」
「えっ……私が作ったようなのがいいの?」
「だめ?」
「だめじゃないけど……普段お菓子なんて作んないから、自信ないな……」
「それでもいいよ。菜々ちゃんの手作りのチョコが欲しい」
「えー……ほんと? もっと高級な、ゴディバとか、カカオサンパカとか、デルレイとかジャンポールエヴァンとか……」
「……え? なにそれ……チョコのブランド?」
あれ? 芸能人なのに、こういうのには疎いんだ。
「ふふ……ブランドの高級チョコとか、食べ慣れてると思ってた」
「いやごめん……ゴディバしか知らねえわ。スタッフさんとか、共演者さんとかから、もらったことはあるかもしんないけど……。食っても、市販のやつとの違い、たぶんわかんねえだろーな……」
「それじゃ、私が作ったのもわかんないじゃん!」
「あ、いや……わかんなくても、それでも食ってみたいんだよ! 菜々ちゃんがどんなチョコ作ってくれるのかも楽しみだし!」
縋るような達樹くんの目に、もう何も言えなくなってしまう。達樹くんがそう言うなら、作ってみたい気持ちはあるが……。
「でも……。ほんとに、おいしくできるかわかんないよ。いいの?」
「……いつもあんなうまいご飯作ってくれんのに、そんな自信ないの?」
「だって、普通のお料理とお菓子作りって、全然違うんだよ! お菓子作りは材料をきっちり計らなくちゃいけなくて、目分量だと失敗するから」
「そうなんだ……。でも、できれば、菜々ちゃんが今までの彼氏に作ったヤツが食いたいなあ。俺も味わいたいから」
「何それっ! 私、バレンタインにチョコ作ったことなんてほとんどないんだよ!」
中学生の頃、当時の彼氏に一度だけバレンタインチョコを手作りしたことがあったが、全く思い通りに行かず、「お前こんなもんしか作れねーのかよ」と言われてしまったのが、今でもトラウマになっている。以来、バレンタインにチョコレートを作るということは、頑なに避けて来た。事情を話すと、達樹くんは眉根に皺を寄せた。
「ひでー男だな。まあ、中学生なんてそんなもんなのかなあ」
「この前の成人式で会った時、大して変わってなかったけどね。あー、思い出したら腹立ってきた」
「あ、ごめん。……それなら、何でもいいよ。作りたくなかったら、買って来てくれてもいい。何でもいいから、菜々ちゃんからチョコがほしい……」
その表情と言葉に、笑いそうになってしまう。本当にこれが、あの坂井達樹なのか。
「うん……わかった。がんばってみるね」
「本当? ありがとう! すげー楽しみ!」
嬉しそうにぎゅっと抱き付かれると、色々と御託を並べてしまったが、達樹くんの頼みなら、どんなことでも挑戦したいと思ってしまう。もし失敗してしまっても、達樹くんならきっと、私を責めたり嫌いになったりすることはないはずだ。