078 シャングリラ後日談
□触発
1ページ/13ページ
タクシーから飛び降り、Googleマップを見ながら、夜の恵比寿を走った。十月に入れば、この時間になると随分涼しい。菜々ちゃんと付き合って四年が経ったある日、俺は佐々木さんと『シャングリラ』で共演した先輩たちに呼び出された。店に到着し個室に通してもらうと、もう、皆かなり酒が進んでいるようだった。
「すいません遅れました! ご無沙汰してます!」
「お疲れ。座れよ」
佐々木さんに促されて席に着くと、皆のニヤニヤとした表情が気になった。そんな中、大北さんだけは決まりが悪そうな顔付きだ。
「お疲れ様です……。何なんすか? 改まって」
我慢できずに尋ねると、大北さんが目を泳がせながら小さく言った。
「……実は俺、結婚するんだよ」
「ええっ!!」
「式を挙げるつもりなんだけど、坂井もよかったら……」
「行きます!! おめでとうございます!!」
「ありがとう……」
「え? ちょっと待っ……あの、最近付き合い始めたって言ってた人っすか?」
「そう。もう彼女も30だし、初めから結婚前提の付き合いだったからな」
「へえ……いやー……おめでとうございます!!」
興奮を抑え切れずに言うと、佐々木さんが大きく息をついた。
「なんだ、そのリアクション……」
「え!? なんだって何すか?」
「お前だよ、お前! 大北は彼女と3ヶ月も付き合ってないんだぞ! お前は何年菜々ちゃん待たすんだ?」
うっ……。
言葉を詰まらせると、大北さんがまた決まりの悪そうな顔をした。
「お前がどんな反応するか見るためだけに、この食事会設けさせられたんだぞ。俺はさらっと電話で報告するくらいに留めたかったってのに……」
「坂井、あんた菜々ちゃんのことどう思ってんの! 真剣に付き合ってるんじゃなかったの!?」
「菜々ちゃん、絶対プロポーズ待ってるよ! 坂井くんと菜々ちゃんの式にも早く行きたいんだけど!」
マリナさんと森野さんに詰め寄られ、どう言っていいかわからなくなってしまった。
「……俺だって結婚したいですよ!」
「なんでプロポーズしないのよ!」
「一応、事務所に筋通してから……」
「なんだよそれ! 既成事実作れよ!」
高崎さんの言葉に、思わず咳き込んでしまう。
「ゲホ……無茶言わないでくださいよ!」
「なんでだよ! 2人とも、もういい大人だろ?」
「菜々ちゃん、親御さんに俺のこと話してないんすよ!」
「ええっ!?」
皆が仰け反った。少し間を空けて、佐々木さんが静かに言った。
「……それは何でなんだ?」
「……菜々ちゃんは、極力自分の周りの人に俺のことを知られないように気を遣ってるんです。菜々ちゃんの周りだと、友達ひとりと、職場の先輩ひとりしか、俺のことを知ってる人はいません……しかも、先輩のケースは、不本意にバレた形です」
「なんじゃそりゃ……え? 彼氏がいる、とも話してないのか?」
「それは話してるみたいです。でも、どんな人かって訊かれても、詳しいことは話してないみたいですね」
「お前……それ、心証よくないぞ。今まで一回も挨拶したことないなんて……」
「俺もそう思って、何回も、せめて親御さんには俺のことを話してほしいって言ってるんすけど……」
暫くの沈黙の後、佐々木さんがぽつりと呟いた。
「……もしかして、菜々ちゃんの方が、達樹と結婚するつもりないのかもしれないな」
「いやマジ勘弁してください!! 俺も時々思うんすよ!!」
「菜々ちゃんの方から、結婚を匂わせるようなこと言われたりはしないのか?」
「それが一切ないんですよ。まだ付き合って半年くらいの頃、いずれご両親に挨拶に行きたいって話したことあるんすけど、菜々ちゃんは全然ピンと来てない感じで……以来、そういう話すんの、怖くなっちゃって」
「………」
「いや何か言ってください!! こえーよ!!」
「どうすんだお前……このままダラダラ、30過ぎても付き合って行くのか?」
「そんなつもりは……事務所には、彼女と結婚したいって何度か言ってます。許可が下りたら、プロポーズしようとは思ってますけど……」
「いつまで経っても許可下りなかったらどうすんだよ」
「……ええと……」
「それに、プロポーズ断られたらどうすんだ?」
「え!? 断られる可能性あります!?」
「なんか……菜々ちゃんってつかみどころがないわねえ。しばらく会ってないから、こんな風に感じるのかしら……。普通女の子って早く結婚したいものだと思うけど……」
「そりゃそーですよ! 私だってもうすぐ30なのに、全っ然プロポーズしてくんないから、菜々ちゃんと同じ気持ちでいると思ってたけど……」
「明日香ちゃんとこももう3年くらい付き合ってるわよねえ……」
「言わないでくださいよお……」
森野さんはうなだれてしまった。マリナさんは頬杖を付いた。高崎さんも複雑そうに天井を仰いだが、思い付いたように声を上げた。
「康平。式、菜々ちゃんも呼ぶだろ?」
「はい。とりあえず報告のラインしようと思ってます」
「達樹から報告させよう。達樹、それで反応見てみろよ」
「ぅえっ……マジすか?」
「そうだな。もしかしたら、『私たちはいつなの?』みたいな空気になるかもしれないし」
「全っ然想像できませんけどね……」
「もしかして、お前遊ばれてんじゃねーの? 菜々ちゃん、他に堅実な仕事してる本命がいるとか……」
「いやマジでやめて……死にますそんなん」
「お前な、死ぬほど好きなら事務所より菜々ちゃんを大切にしろよ。報告したら、すぐ教えろよな」
「……わかりました……」
せっかくのおめでたい話の席なのに、俺は料理の味さえ殆どわからなかった。間違いなく、菜々ちゃんは俺を好きで付き合ってくれているはず……自信がないわけではないが、こと結婚に関しては、彼女がどう考えているのか、全く読めない。聞くのが怖くて、話題にすることさえ、つい避けてしまうほどだ。
それでも……俺はもうすぐ、二十八だ。事務所の許可が下りてプロポーズして、OKをもらえたとしても、そこからすぐに籍を入れられるわけではないだろう。できれば菜々ちゃんが二十代のうちに結婚したいし、ウェディングドレスを着せてあげたいし、もし子供を作るとなれば、若いうちの方が体への負担も少ないはずだ。そんなことを考えると、とにかく早く結婚したい。それに……結婚すれば、大手を振って二人で外を歩けるし、どんなに人の多いところでも手を繋げるし、旅行にも行ける。
菜々ちゃんは去年の春に大学を卒業して就職した。結婚は、仕事に慣れて落ち着いてからがいいかと、今までどこか悠長に構えていたが、皆にここまで言われると、焦燥感が急に募ってしまう。
菜々ちゃんは、どういうつもりでいるんだろう……大北さんのことを話したら、どんなリアクションするかな……。