078 シャングリラ後日談
□ワンアンドオンリー
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十九時、俺はそわそわと落ち着かない気持ちでいた。今日、菜々ちゃんは無事に仕事を終えられたか、気が気でない。一時間前、『今日は仕事どうだった?』とラインしたが、返事どころか、既読も付かないので、まさかまた同期に残業させられる羽目になっているのではと、心配でたまらなかった。
何度目かわからない溜め息をついた時、やっと菜々ちゃんから返事が来た。『電話していい?』という内容に、ここが局内の廊下だということも忘れて、菜々ちゃんに電話を掛けた。
「菜々ちゃん! どーした!?」
『……達樹くん〜〜……』
菜々ちゃんの第一声は、泣いているような、怒っているような、何とも言えない声色だった。もう、事情を聞くことが怖くなって来る。
「ど、どうしたの。何があった?」
『……ごめんなさい……東さんに……』
「え!? 何!!」
『……さっき……休憩室で2人でいるとき……抱き締められた……』
一気に頭に血が上った。
あの野郎……!!
すぐにでも殴りに行きたかったが、できるだけ平静を装った。
「……何があったの。何でそんなことになんの?」
訥々と、菜々ちゃんは今日あったことをひとつひとつ話してくれた。それを聞くと、不思議なもので、頭に上った血もすっと下りて行く。止めてしまっていた足を無理矢理動かし、とりあえず駐車場へ向かった。
「そっか……菜々ちゃん、えらいね。よくがんばったね」
『……達樹くんのおかげだよ……』
「そんなことないよ。俺が何を言っても、菜々ちゃん自身が行動しないと状況変わらないんだから。……それにしても、菜々ちゃん……東、殴ったの?」
『な、殴っちゃった。グーで……。う、訴えられるかな?』
「ぶはっ! 大丈夫だよ。先に手え出して来たの、向こうだろ?」
『……達樹くん、怒んないの?』
「いや、そりゃ腹立つけど。たぶん東は、『気にすんな』って言いたかっただけだと思うよ。素直にそう言えないだけで」
『ええ……!? この前も思ったけど、なんで達樹くん、東さんのことがわかるの?』
「んー……なんでかな。2人とも、菜々ちゃんが好きっていう共通点があるからじゃない?」
菜々ちゃんは、何それ! と言っていたが、俺としてはまあまあ真面目だ。菜々ちゃんに、真っ直ぐ正直にありがとうと言われ、戸惑ったのだろう。そして、この前考えた通り、もしかして東は俺に対して「仕事中は自分がフォローするから、プライベートではお前が彼女をフォローしろ」と思っているのでは、という推測にも、きっと間違いはないのだろう。
『でも、よりによって月曜日に、あんなことしてくるなんて最低! 今日は、達樹くんに会いたくても、会えないのに!』
ラジオの生放送は二十五時からだが、いつも打ち合わせのために、二十二時には局に入っている。腕時計を見ると、十九時半前だった。往復の時間を考えると……。
「菜々ちゃん。行くよ。少しでよかったら」
『え、えっ!?』
ちょうど駐車場に着いた。今から菜々ちゃんの部屋に向かえば、少しの間なら一緒にいられる。が、菜々ちゃんは驚いたようだった。
「マジで、30分くらいしかムリだけど、それでもいいなら」
『だ……だめ、だめ!』
「なんで! 迷惑?」
『そんなわけないけど!』
少し間を空けて、菜々ちゃんはゆっくりと話し始めた。
『……30分じゃ、私、足りない……余計、寂しくなる……。もっと長く、一緒にいれる時に、たくさん、愛して……?』
……菜々……反則……。
「……言ったな。俺、明日は早く終わるから、会いに行く。拒否権ねーから」
『え!?』
「事務所の前で待っとくから。東見かけたら手え出す可能性あるから、別々に出て来いよ」
『達樹く……本気?』
「当たり前。イヤとか言わねえよな」
また間を空けて、菜々ちゃんは穏やかに言った。
『……言うわけない……うれしい。達樹……愛してる』
……ああ……今日も会いたい……。
「……俺も。菜々、また明日」
『うん。待ってるね』
電話を切ると、さっきまで引いていた怒りが、また沸々と湧いて来た。菜々ちゃんの細い腕や、柔らかい髪、甘い匂い、何もかも……俺だけが独占できるものであって欲しいのに、よりによってあの東が、それをひとかけらでも味わったのかと思うと、身が引き裂かれそうな思いがする。今すぐ会いに行って、菜々ちゃんの体に残った東の感触を消したい……。自分はこんな仕事をしていて、散々、他の女と抱き合ったりキスしたりするくせに……。
情けねーなあ……。
自分でも、自分自身の嫉妬深さ、独占欲の強さには辟易する。こんなんじゃ、いつ菜々ちゃんに愛想尽かされるかわかんねえな……。
車に辿り着き、今からの半端な時間をどうするかと考えながらドアを開けると、電話が鳴った。遠野さんかと思って画面を見て、驚いた。
「菜々ちゃん?」
『達樹くん! ごめんね! 大丈夫?』
「うん。どうした?」
尋ねると、すっと息を吸う音が聞こえた。
『ご、ごめんね。やっぱり、会いたい……! だめかな……?』
「え!」
『さっきから、鳥肌やばくておさまんないの! もう体中かゆい! 気持ち悪い! 達樹くんにぎゅってしてもらいたい……もう遅い?』
ああ……菜々……。
「遅くない。すぐ行くよ。待ってて」
『あ、ありがとう……ごめんね、わがまま言って』
「いいよ。俺の方こそありがとう。後でね」
電話を切り、エンジンを掛けた。やっぱり会いたい、と言ってくれた菜々ちゃんの声が、頭の中で響く。
俺と同じことを考えてくれていた……。俺も、会いたい……抱き締めたい……。
我ながら単純だが、さっきまであんなにイライラしていたのが嘘のように気分が晴れて行く。
俺の喜怒哀楽の全ては、菜々ちゃんに支配されているんだな……。
恐らく自分も、三十分では足りなくなるだろうが、明日も菜々ちゃんに会いに行くという約束をお守りにしよう。急いでいるのに、何度赤信号に止められても、そう考えるだけで穏やかな気持ちになれる。横断歩道を渡るカップルや、スーツ姿のOL、女子大生らしい三人組、誰を見ても、俺は菜々ちゃんのことばかり考えてしまっていた。
END