078 シャングリラ後日談

□ワンアンドオンリー
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十八時十二分、私はこの上なく不機嫌だった。契約書、伝票、帳簿の山に囲まれながら、電卓を叩き、データを入力し、総務と何度も電話のやりとりを交わす。受話器を置いた途端、同僚の声が飛んで来た。

「菜々、私上がるねー。あとやっといてよ!?」

「はいはい。お疲れ」

「はいはいって……私悪くないからっ! 菜々のせいでしょお!?」

「はいはい。また来週。お疲れ」

「……お疲れさまあ」

一人、また一人と、同僚や先輩がお先にと上がって行く。二十時前、事務所にやっと一人きりになれた。まだかかるし、こうなったらもうお茶でも入れてのんびりやってやろうかと考え掛けた時、事務所の扉が開いた。

「あれっ!? 加納さん、まだ残ってんの!?」

「東さん……直帰じゃなかったんですか?」

「契約取れたから、書類置きに来た。頭金も金庫に入れとこうと思って」

さすが東さんだなあ、とぼんやり考えた。いちいち絡んで来るのは鬱陶しいが、難しそうな案件は必ず東さんが出向き、決まって契約を取って来るのには、尊敬せざるを得ない。

「……加納さんは何やってんの? まさか、昼間沢村さんとしゃべってたやつ?」

「そうです。もうちょっとで終わりますけど」

「……あのさあ。みんな何も言わないだけで、加納さんのミスじゃないことはわかってるよ」

沢村絵理香は、同期の一人だ。世渡りがうまいというか、上司の前ではしおらしいくせに、何かやらかす度に、ミスを私のせいにして、仕事を押し付けて来る。最初は抵抗したが、いちいち周りに「菜々が自分の失敗を私のせいにするんですう!」とかなんとか言ってギャーギャー喚くのにうんざりしたので、最近はもはや諦めている。

「もうめんどくさいんです。絵理香にやらせても、どうせまたミスするし。私がやった方が早いです」

「なんだよそれ。同じ同期でも、島田さんは沢村さんのことうまいことかわしてんじゃん」

「ああ……千紘はちょっと好戦的なとこありますからね。私は事なかれ主義なんで」

「事なかれ主義って……聞こえはいいけどさ、ただ面倒事避けてるだけじゃねーの?」

うーん……確かにそうとも言えるかも。でも、とりあえず今はお説教は聞きたくない。

「ま……あんま目に余るようなら、俺からも部長に言うよ。つーか、部長も気付いてんじゃねーのかな?」

「気付いてないんじゃないですか? 絵理香、部長の前ではおりこうさんですからね」

「……あと何残ってんの? 手伝うよ」

「いりませんお疲れ様です」

「早っ。なんでだよ! できないと思ってる?」

「思ってませんけど。一人でやる方が集中できますから」

はあ、と溜め息をつくと、東さんは私の隣の席の椅子に腰掛け、頬杖を付いた。

「飲みにでも行く?」

「行くわけないじゃないですか!」

「たまにはいいじゃん。金曜だし。後輩の女の子に金なんか出させねーから」

「そういう問題じゃありません! 東さんと飲みに行くくらいだったら家で一人で飲みます!」

つい声を荒げると、東さんはくっくっと笑った。

「憎まれ口叩く元気はあるんだな」

「……元気なんかありませんよ。ただでさえイライラしてるのに。放っといてほしいです」

手を止めて頭を抱えると、東さんがとんでもないことを言い出した。

「坂井に電話すれば?」

「はあぁ!?」

「癒してもらいなよ」

「なんっ……できません!」

「なんでだよ」

「だって、今何してるか、わかりません! 撮影中か、収録中か、打ち合わせ中か、移動中か」

「ふーん? 今まで急に電話したせいで、そういうの邪魔したことがあったってこと?」

「な、ないですけど……」

「はあ!? 邪魔しちゃ悪いって想像だけで、今まで一回も自分から電話したことねーの!?」

「えっと……まずラインします。電話していいか……」

「ああ……。それでいいじゃん。ラインしろよ!」

「で、できませんよ! 何事かと思われるじゃないですか!」

「『今日ヤなことがあったの! 会いに来てっ!』とか言やいーじゃん」

開いた口が塞がらない。

頭おかしくなったかと思われるわ!

「頭おかしくなったかと思われます」

苛立ちと疲れから、思ったままのことを口にすると、東さんも溜め息をついた。

「甘え下手なんだなあ。普段全然そんなこと言わねーんなら、喜ばれるよ」

「彼の何を知ってるっていうんですか……」

「わかるよ。2回しか会ったことねーけど、意外と加納さんの方がドライで、坂井がウェットだよな。事務所の前で2人で喋ってただけで、おっそろしい顔で『彼女に何ちょっかい出してんだ!』って!」

「いや思い出させないでくださいよ! 相手が東さんだからでしょ!」

「なんでもいいけど。もし今日仕事の都合で会えないとしても、加納さんに『会いたい』って言われた事実は残るんだから、次の日でもその次の日でも、都合つけば会いに来てくれんだろ。たまには甘えてみろよ」

そう言って東さんは立ち上がった。

「見てる人は、ちゃんと見てるから。元気出せよ」

ぽん、と肩に手を置かれ、戸締まり頼むね、と東さんは出て行った。

何だろ……東さんに優しくされると、調子狂うなあ。

そう思いながら、一段落付いたら、達樹くんに連絡してみようかなあ、とこっそり考えてしまっていた。
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