078 シャングリラ後日談

□羨望 達樹サイド
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数日後、俺は午前の仕事を終えて、時間潰しにカフェに入った。アイスコーヒーを注文し、携帯でスケジュールを確認していると、ラインが届いた。

『お疲れ様。ご一緒していい?』

それは結愛ちゃんからだった。驚いて辺りを見回すと、窓の向こうから、こちらに向かって手を小さく振る結愛ちゃんが目に留まった。

『お疲れ様。いいよ』

一応、鞄から眼鏡を取り出し、掛けてから返信した。間もなく、結愛ちゃんは中に入って来て、俺の向かいに座った。

「達樹くん、おはよう。ごめんね、ありがとう」

「おはよう。全然いいよ。今日、仕事これから?」

「うん。まだ少し時間あるから、何か飲みたいなって、ちょうど思ってたの。暑いし、喉乾いちゃって」

そう言う結愛ちゃんの笑顔は、以前と同じ、心からの笑顔に見えた。

「結愛ちゃんって、あんま喉乾いたりしなさそうに見えるけどね」

「ええっ!? 何それ! どういう意味よぉ!」

「腹減ったとか眠いとか、そういうのが人より少なそう」

「ひどい! 人のことサイボーグみたいにっ!」

そう言って、結愛ちゃんはまた笑った。いつもこの笑顔でいられたらいいのにな、イメージ変わるし、役の幅も広がりそうなのに。失礼ながらそんなことを考えていると、結愛ちゃんはそっと、テーブルに両肘を付き、手を組んで、その上に顎を乗せた。

「達樹くん。突然だけど、今、お付き合いしてる人っているの?」

本当に突然な問い掛けに、一瞬、言葉が出て来なかった。

「え、な、なに? 急に」

「私、達樹くんのこと、好きになっちゃったみたいなの。いつもすごく優しいし、真面目だし、私とか、他の共演の女優にガツガツしないところも、魅力的でいいなあって」

……はああ!?

あまりに唐突過ぎて、わけがわからない。本気なのかさえ読めない。

「困ってるね。わかりやすい。そういうところも素敵」

「えーと……え? 本気なの? ちょっとマジで、急すぎて……」

「そうだよね。ごめんね。でも、今こうして偶然会えて、すごくうれしくて。達樹くんの気持ち、聞かせてほしいな」

小首を傾げる結愛ちゃんに、ますます困惑する。どういうつもりかはわからないが、とりあえず嘘をつくのは悪手だと判断した。

「……ええと。せっかくだけど、俺、付き合ってる子がいるから」

「やっぱり。加納菜々ちゃん?」

「はあ!?」

付き合ってる子いるの? って訊いてきといて、答えたら、やっぱりってなんだそれ!!

「前に舞台で共演した女の子だよね。私もあの舞台、観に行ったよ。かわいい子だったよね。素人とは思えなかった」

「……なんで知ってるの?」

「けっこう、有名だよ。前に週刊誌の記事にもなってたよね。達樹くん、こんなにかっこよくて、今業界一勢いのある俳優なのに、全然女っ気ないんだもん。そりゃあ、女優仲間も、スタッフもみんな、気になるよ。でも、完全に隠してるわけじゃないでしょ? あの舞台の共演者やスタッフには、周知の事実らしいじゃない。それなら、時間が経てば広まるよ」

……なるほど。

確かに、『シャングリラ』に関わった共演者、スタッフは、皆俺と菜々ちゃんのことを知っている。別に口止めもしていないし、相当な人数だ。誰かが誰かに、内緒だけど……なんて話そうものなら、噂が広まるのも頷ける。

だが……。

「……それならなんで、付き合ってる人いるの、なんて訊き方するの?」

「確かめたかったから。それに、達樹くんが嘘をつくかどうかも、興味があったの。ますます、好きになっちゃった」

ニコッと笑う結愛ちゃんに、もう、どうしていいかわからなくなってしまった。そんな俺の心中を読むように、結愛ちゃんはまた、小首を傾げて尋ねて来た。

「お付き合いは順調? 彼女と別れて、私と付き合ってくれる気はない?」

……いやもう……マジで、何なんだ……。

「……えーと……気持ちは嬉しいけど、好きで付き合ってるから……」

「ふうん」

俯いて、結愛ちゃんは携帯を取り出した。

「これ、達樹くんと、加納菜々ちゃんだよね」

見せられた写真は、俺の車の中で、俺と菜々ちゃんが笑い合っているものだった。血の気が引いたが、次の瞬間、体中が熱くなり、脂汗が滲んで行った。

「……こんなの、どうやって……」

「私がこれを売れば、加納菜々ちゃん、どうなるかなあ。前の週刊誌の写真と違って、ツーショットだし、顔もはっきり映ってるから、ひどい目に遭うかもね」

「そんなことしたら、結愛ちゃんの身も危なくなるだろ」

「私は、達樹くんと違って、その辺は抜かりなくやってるから、心配いらないよ」

そう言って、結愛ちゃんは立ち上がった。

「今日は、とりあえずここまでにしてあげる。でもすぐに、私の言うことを聞く気になると思うよ」

颯爽と去って行く結愛ちゃんの背中を、俺は黙って見つめるしかできなかった。

すぐに、私の言うことを聞く気になる……。

その言い方に、まだ何かがあるような含みを感じ、背筋が冷たくなった。まだだいぶ残っているアイスコーヒーを見つめながら、どう立ち回れば、菜々ちゃんを守ることができるのか、どんなに考えても答が出ず、俺はいつまでもその場から動けずにいた。
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