078 シャングリラ後日談

□氷解
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「菜々ちゃん。もういいだろ! 聞かせてよ!」

家が見えなくなったところで、達樹くんは車を停め、私の肩を掴んで言った。車停めるほどなの!? と思ったが、達樹くんの立場になれば、気になって仕方がないはずだ。思い出しながら、先ほどのお父さんとのやりとりを掻い摘まんで話した。

「……親父が……『シャングリラ』を観てくれてたって?」

「うん。お母さまと一緒に観たって言ってたよ」

「………」

正面に向き直り、達樹くんは目を伏せて右手で口元を押さえた。達樹くんの長い睫毛が、ふるふると揺れている。見ていてはいけないような気にもなったが、目が離せなかった。右肘をハンドルに預け、今度は額を右手で抱えながら、達樹くんは訥々と話し始めた。

「……兄貴は……大学を卒業しても、定職につかずにフリーターをやってたんだ。親父はだいぶ、それに頭を悩ませてた……。しばらくして……兄貴が急に、店をやるなんて言い始めた。親父は我慢の限界だったのか……毎日、兄貴と掴み合いのケンカしてた。その時……俺は中学生で、兄貴がそんなことを言い出すまでは、漠然と……俺も親父と同じように、公務員になるんだろうなって思ってた。でも……本当に店を始めた兄貴を見て……俺も、自分のやりたいことを探したいって思うようになって……」

達樹くんの声が、震えている。達樹くんから、こんな話を聞くのは初めてだ。

「高校生になって……友達と渋谷に出かけた時にスカウトされて……。自分には何もないって思ってたけど、必要だって思ってくれる人がいるなら、やってみたくなった……。当然、親父は認めてくれなくて……家出同然で実家を出て……。それでも、舞台に出演するからとか、映画の主演が決まったとか、作品を観てほしいって何度も連絡したけど、返事が来たことなんかなかった……。なのに……」

言葉を切り、達樹くんはハンドルに突っ伏した。嗚咽を噛み殺す達樹くんを、外だということも忘れて抱き締めた。

「……達樹くん……」

「う……菜々……」

私の腕の中で、達樹くんは暫く、静かに泣いていた。どれくらいそうしていたのか、達樹くんは私の背に腕を回し、ぎゅっと力を込めてくれた。

「……菜々ちゃん、ごめん。ありがとう……」

「ううん……私こそ……」

「いや……菜々ちゃんのおかげで、少しだけど……親父と近づけた気がする……」

「そんなことない。お父さまも達樹くんも、本当は心の底で相手を思いやっているから、わかりあえるんだよ。それがなかったら、私が何をしても言っても無駄だもん。私はただのきっかけだよ」

体を離して、達樹くんの目を見て言った。涙で濡れて赤くなった瞳が、また揺れている。

「菜々……ありがとう、本当に……」

「ううん。もう、いいんだよ。気にしなくても」

そう言うと、達樹くんは運転席に座り直し、やっとエンジンを掛けた。

「この前……菜々ちゃんの実家に挨拶に行ったあと、俺菜々ちゃんに偉そうに『俺はがんばったから、次は菜々ちゃんの番』とか言ったけど……マジで、あの時の俺ぶん殴りたい。こんなに、俺のことを思っていろいろしてくれる菜々ちゃんに向かって、何イキったこと言ってんだって感じだよな」

「そ、そんなことないよ。もう……私、お父さまに、だいぶ食ってかかるような言い方しちゃったし……」

「え? そーなの?」

「だって! あんなこと言われたら、ムカつくもん!」

「あー、なんだっけ? 俺のこと顔と稼ぎだけで選んだとか言われたって?」

「そう! 達樹くんのお父さんじゃなかったら、手え出てたわ!」

「ぶはっ! で、菜々ちゃん、なんて言ったの?」

「……それだけで結婚しようとするほど、私器用でも賢くもないですって。顔と稼ぎだけいい男ならいくらでもいますって」

「あはははっ!」

達樹くんは楽しそうだが、今思うと、お父さまの言った通り、よくもまあ初対面の彼氏の父親にあんな言い方をしたものだ。

「あー、おもしれえ。そういや、忘れてたけど、菜々ちゃん、そーいうとこあるよなあ」

「え? そーいうとこって?」

「就職したばっかの時も、入社してすぐのくせに、東にめちゃくちゃ棘ある言い方してたじゃん」

「あう……」

新歓で東さんに、彼氏はいるのかとか、写真を見せろとか、駅まで送るとか言われたことに業を煮やし、「下心がないなら放っておいて下さい」と突き放した私のことを、達樹くんは「よく先輩にそんな言い方できるな!」と笑っていた。

「……ごめんなさい。東さんはどーでもいーけど、達樹くんのお父さんはどうでもいい人じゃないのに……」

「あははっ! いいじゃん、結果うまくいったんだから」

「ん……そうだね」

お母さんが言っていた、「お父さんは本当は達樹のドラマや映画を観ているし、雑誌も切り抜いて保管している」というのは……お父さんのために黙っておこう。いつかきっと、お父さんの方から、達樹くんに話してくれるはずだ。

「で? さっき言ってた、約束って何?」

「達樹くんには秘密だってば。大丈夫、ヘンな約束じゃないから」

「なんでだよ! 教えろよ!」

「ふふ。そういえば達樹くん、お兄さんのこと呼び捨てにしてるんだねえ。すごい違和感あったなあ」

「おいっ! 話逸らすなよ!」

「8歳も年上なのに! 仲がいいからこそなのかなあ?」

「だって……親父も母さんも、俺が小さい頃から兄貴のこと基、基って呼んでたし。兄ちゃんとか兄さんなんて、今さら呼べねえ……」

「ふーん……? あっ! それに、達樹くんがお父さまやお兄さんに達って呼ばれてるのも新鮮だった! 達! すてきー!」

「うわっ! 菜々ちゃんに達って呼ばれたらなんか気色わりい!」

左手で右の二の腕をさする達樹くんに、思わず声を出して笑ってしまう。

「……お兄さんも、達樹くんも、お父さまに似てるよね」

「……そうかな?」

「背も高いし、お兄さんイケメンだった! あ、そういえば見てよ! お父さまのこのラインの名前の表記! 達樹くんと一緒! 英語で!」

「えー? そんなん、いっぱいいるよ」

「達樹くんはなんで英語なの? サインもだし、おうちの表札も英語だった」

「いやー……深い意味はないけど……。サインは、最初は漢字で練習したんだよ。でも、達樹って漢字、30画近くあんだよ! もう書くのダルくて、英語にした」

「ええっ!? そんな理由!?」

「いやいや、菜々ちゃんにはわかんないよ。たぶん、菜々って漢字は、達樹の総画数の半分もないな。名前書くたんびにイライラするんだよ」

「そんなもんなのかなあ……」

「兄貴はまだいいんだよなあ。基本の基に、達樹の樹で、俺よりちょっと少ないけど……それでも多いか。親父も画数多めの漢字なのに、子供におんなじ業を背負わすなよな、もう……」

溜め息をつく達樹くんに、似たもの親子だなあ、と笑ってしまった。そして、お兄さんの名前が出たことではっと思い出し、気になっていたことを訊いてみた。

「そういえば、達樹くん」

「ん?」

「さっきお兄さんに、『この前代行頼んだ時に痛い目に遭った』って言ってたけど、何があったの?」

「ああ」

正面を向いたままの達樹くんは、何でもなさそうなトーンで言った。

「この前菜々ちゃんの実家に行ったとき、代行頼んだだろ。そしたら、菜々ちゃん、機嫌悪くなったじゃん」

なっ……。私のせい!?

「な、なにそれ……!」

「あはは、ごめん。でも、やっぱ移動中一切会話できないの、苦痛だから。かといって、菜々ちゃんにタクシー使ってもらって、別々に帰るのも意味わかんねえし。やっぱ俺が運転すんのがいいなーと思って、兄貴にはとっさにああ言っただけだよ」

……確かに、あの二時間は苦痛だった。私はラジオを聴けたから良かったが、達樹くんはあの時、そんなことを考えてくれていたんだ……。

その心遣いが嬉しく、尚もお父さんとの約束のことを尋ねようとして来る達樹くんに、庭でのお父さんとの話の続きを聞かせてごまかしながら、私は幸せな気持ちで満ち足りていた。

「達の何がよくて結婚したいんだ」と訊かれ、「優しくて、真面目で、思いやりがあって、正直で」と、前に達樹くんが話した、私の好きなところと同じことを思わず答えたと言うと、彼は恥ずかしそうに目を伏せた。

お父さんとの約束も、きっと近いうちに果たせるだろうな。

お父さんのラインのアイコンを眺めながら、後で達樹くんに今度の舞台のスケジュールを確認しよう、と決心し、まだ目を伏せている彼の左手をそっと握った。



END
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