078 シャングリラ後日談
□君と描く未来
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いつもの感覚で、私は六時に目覚めた。そして、いつもするように、達樹くんを起こさないようにそっとベッドを出て、顔を洗って化粧をした。そしてキッチンへ向かい、何か食べられそうなものを作ろうと、冷蔵庫を開けて、はっとした。
お付き合いし始めの頃は、冷蔵庫を勝手に開けるなんて、とてもできなかった……。結婚したら、今度はすっぴんでウロウロするのも平気になるのかなあ……。
ふう、と息をつき、冷蔵庫を閉めて携帯を取り出した。昨日のお礼に涼太にラインを送り、また改めてキッチンを眺めた。
珍しく食パンがある……トーストにして、野菜と目玉焼き乗せようかなあ……。
あとはパンを焼くだけの状態にしておこうと支度を始めると、達樹くんが起きて来た。いつも、私が横にいるといつまでも眠っているのに、私がいないと、目覚ましが鳴る前に起きて来るのだ。
「菜々ちゃん……おはよう」
「おはよう。早いね? まだ寝てていいのに」
「んー……なんか目え覚めた……なんか作ってくれてんの?」
「うん。珍しく食パンがあるから、いつもと違うのにする。顔洗っておいでよ」
「うん……ありがと」
こんな会話にも、最初の頃はドキドキしてたなあ。
トーストにレタス、ハム、トマト、目玉焼きを乗せ、マヨネーズとケチャップを掛けた。コーヒーも淹れたところで、達樹くんが戻って来た。
「うわ、すげえ。ホテルの朝ごはんみたい」
「大げさだよっ! トマト傷みそうだったし、レタスも残りがあとちょこっとだったから……」
「菜々ちゃん、いっつもこんな朝ごはん食べてんの?」
「まさかあ。自分ひとりじゃ、絶対こんなことやんない! いつもはスティックパンひとつとか、お茶漬けとかそんなんで済ませるよ」
「じゃあ、結婚したらどんな朝ごはんしてくれんの?」
「えっ……えー……達樹くんはいつも、朝ごはんどうしてるの?」
「俺食わないことが多いかも……朝はギリギリまで寝てたい……」
「じゃ、作っても食べてくれないじゃん!」
「いや、食う食う! 『あなた起きて! 朝ごはんよ!』とかやられたら飛び起きて食うって!」
「絶対やんない。それに、そんなの一週間で効き目なくなりそう」
「うーわ……」
達樹くんは呆れたように背もたれに体を預けた。
「菜々ちゃんって、全然結婚に夢持ってねえよなあ」
「そりゃ、結婚はスタートで、ゴールじゃないもん。これからなんだよ?」
「そうかもしんないけど。例えば、こんな結婚式がしたいとか、新婚旅行どこに行きたいとか、こんな新居に住みたいとか、そんなんないの?」
「えー……」
「……今まで待たせたから、菜々ちゃんの希望通りにしようと思ってたけど、大して待ってなかった感じするしなあ」
目を伏せて溜め息をつく達樹くんの様子に、私は慌てた。
「そ、そんなことないよ! 確かに、結婚って……具体的には考えてなかったけど、すっごくうれしいよ!」
「ほんとかなあ。じゃあ、さっき訊いたこと、教えてよ」
「うーん……」
考えてみても、達樹くんには悪いが、本当に何も浮かばない。
「んー、んー……、結婚式……は、そんな盛大じゃなくていい。挙げなくてもいい……。新婚旅行も、安全なとこなら、どこでもいい……。家は、うーん……あ、マンションがいいな。仕事辞めたくないから、今の部屋からあんまり遠くなるとイヤかなあ」
独り言のように言うと、達樹くんはまた溜め息をついた。
「マジで、そんな感じなの? 結婚って、女の子からしたら夢みたいなもんだと思ってた! 周りの女優さんとかモデルさんとか、結婚するんですって教えてくれる時はみんなわくわくしてたのになあ」
「う……。じゃあ、達樹くんの考えも聞かせてよ!」
「俺は、式は菜々ちゃんの希望通りにしたいって思ってるから、菜々ちゃんが挙げたくないならそれでもいいけど。でも、菜々ちゃんのご両親に、ウェディングドレス姿くらいは見せてあげたいかな。新婚旅行は海外がいいかな……顔指されたくないし。家もまあ、俺もマンションがいいかな。つーか、菜々ちゃん、仕事辞める気ないの?」
「え……だめ?」
「だって、あいついるじゃん。東」
仁美以外で、一人だけ私の彼氏が坂井達樹だということを知っている人、それが職場の先輩、東さんだ。二人でいるところを偶然見られ、バラされたくなかったら俺とも付き合えと脅して来た先輩。達樹くんが釘を刺してくれたおかげで、これまでそんなに悪質な嫌がらせやセクハラを受けることはなかった。
「いるけど……さすがに、結婚するんですって言えば、あきらめてくれるんじゃない?」
「甘いな。あんなことしてきたやつが、結婚くらいで引き下がるかよ。俺、菜々ちゃんが仕事辞めても、やってけるくらいの稼ぎはあるつもりだけど」
「やっ、もちろん、それはそうなんだけど! でも、達樹くんのお仕事はいつ何が起こるかわかんないし、私も働いてた方がいいじゃん!」
「まあ……わかるけど。でも、もし子供ができたら辞めて、パートとかに出るくらいに留めてほしいな」
こ、こども……!
「達樹くん、気が早いね……。そんなにすぐ、子供ほしいの?」
「や、ごめん。それはもうちょっと後がいい……。菜々ちゃんは?」
「私も、そんなすぐ考えられない! でも、どうして後がいいの?」
「だって、せっかく結婚して、好きなようにデートできるようになるんだよ! しばらくは二人だけで、今までしたくてもできなかったことやりたいよ」
その言い方に、つい笑ってしまった。
「ふふ……そうだね。私も、たくさんデートしたい!」
「うん……。じゃあ、まずは次に、俺の実家に挨拶だな。もう、俺は肩の荷降りたから! 次は菜々ちゃん、がんばって!」
「や〜〜! そんな言い方しないでよっ! 私だって、昨日がんばったよっ!」
そう言うと、テーブルの上の携帯が震えた。
「あ。涼太だ」
「え!? なに、なに!?」
「えっとね……。姉ちゃんおつかれー。父さんも母さんもお兄さんのことすげー気に入ったみたいだから安心しろよ。また一緒に帰って来る時には連絡して。だって!」
「マジ!? あー……よかった……」
背もたれに体を預けて天井を見上げる達樹くんに、ありがたい気持ちが溢れた。
「達樹くん……がんばってくれてありがとう。次は私ががんばるね!」
そう言うと、達樹くんは穏やかに笑った。
「菜々ちゃんなら大丈夫だよ。また都合つけて連絡するね」
その笑顔を見ていると、本当に大丈夫なような、本当に何もかもうまくいくような気になって来る。実際は、片付けないといけない課題は山積みなのだろうが、達樹くんと一緒なら……きっとそれも楽しめるんだろうな。
目玉焼きの黄身がお皿に零れないように四苦八苦する達樹くんを眺めていると、私もつられて笑ってしまう。幸せな気持ちを噛み締めながら、私はそっとミルクティを啜った。
END