078 シャングリラ後日談
□灯
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一週間後、私は達樹くんの部屋にお邪魔した。達樹くんは開口一番、映画の感想を尋ねて来た。公開日にも、『観てくれた?』とラインをくれていたのだが、『観たよ。会ってから直接感想言うね』とごまかしていたのだ。以前の『泡沫』とは違ってラブシーンは一切ないからか、純粋に映画の感想が気になるという口振りに、私は少し口ごもってしまった。
「『月下の錯綜』、観てくれた?」
「あ、うん、観た……。この一週間で4回くらい観たよ」
「よ……めちゃくちゃ観てくれてるね。そんなに面白かった? うれしいなあ」
「あ……えっと、あのね……」
四回観ても、とにかく映画の感想よりも「達樹くんが死ぬほどかっこよかった」しか浮かばず、私は目を泳がせた。そんな私の様子に、達樹くんはいつだって敏感だ。
「え!? なに? そんな心配させるようなシーンあったかな……」
「あ、違うの。えーと、えーと……」
もうアホだと思われてもいい! と、思い切って「達樹くんがかっこよすぎて映画の内容が入って来なかった」と伝えてみた。達樹くんは一瞬ぽかんと口を開け、そしてオーバーに笑い始めた。
「あはははっ! なんだよそれ! それで4回も観てくれたの?」
「う……それもあるし、ちゃんと感想を話したいから、なんとかストーリーを頭に入れようと何回も観たのもある……でも、ただただ達樹くんがかっこよかった……」
達樹くんは目元を手の甲で拭い始めた。泣くほどおかしいらしい。
「ほんとに、かっこよかったんだもん……あの、タバコを吸うシーン!」
「え!? 菜々ちゃん、タバコ嫌いなのに」
「キライだけど! 達樹くんフィルターがかかったら何でもかっこよくなっちゃうの!」
「あははっ! やべーおもしれえ! そんなに気に入ってくれたんなら、やって良かったなあ。オファーが来た時、事務所は悩んだみたいだけど」
「あ……やっぱり、そうなの? 今までの役と、だいぶイメージが違うから」
「俺自身も、タバコ吸うの久しぶりだったから、これで習慣が戻りそうで怖かったよ。今んとこ、禁煙継続できてるけどね」
火にトラウマがある私のために、辞めて欲しいとも言っていないのに、達樹くんは煙草を辞めてくれた。胸が締め付けられると同時に、少し無茶なお願いをしたくなってみた。
「ねえ、もうタバコって持ってないの?」
「え? えーと……実はあと何本か残ってる。すぐ捨てるよ!」
「あ、違うの! あのね……ちょっと、吸ってみてほしい……」
「え!?」
達樹くんは目を丸くした。
「な、なんで?」
「あんまり、かっこよかったから……生で見たくなって。だめ……?」
「だめじゃないけど……菜々ちゃん、大丈夫?」
「うん! お願い!」
パチンと手を叩いて両目を瞑ると、ふうっと息をつく音が聞こえた。また習慣になりそうだなあ、と呟き、達樹くんは寝室から煙草の箱とライターを持って来てくれた。
「部屋の中だとアレだから、ベランダに行こうか。って、ベランダでもご近所に怒られそうだけど……まあ、今日限りだしいいか」
達樹くんは今の部屋に引っ越してから、部屋でもベランダでも一切煙草を吸っていないらしい。確かに、部屋から煙草の匂いを感じたことはなかった。少し申し訳ない気にもなったが、好奇心が勝ってしまう。達樹くんは適当にキッチンから空き缶を漁った。ベランダに出ると、冷たい風が容赦なく頬を撫でる。
「うお、さぶ……! 菜々ちゃん、上着いる?」
「ううん! 大丈夫! 体熱い!」
「すげえ楽しみにしてんじゃん……」
そう言って、達樹くんは少し形の崩れた箱から煙草を一本取り出した。カチ、とライターが音を立て、次の瞬間、達樹くんの口元から紫煙が立ち上った。
風から火を守る左手、伏せられた目、煙草を挟む長い指、全てが、もう……。
「あーー……尊い……!! ありがとうございます……!!」
また両手をパチンと合わせてお辞儀をすると、達樹くんは口から煙草を離して、吹き出した。
「あははっ! そんなに!? こんなんで?」
そう言って、達樹くんはトン、と指で煙草を弾き、空き缶の中に灰を落とした。
「あーーー!! ありがとうございます!!」
「チョロいな! 菜々ちゃん!」
「達樹くんにだけね!!」
楽しそうに目を細め、達樹くんは右手で口元を覆うように煙草を咥えた。煙草の先がジ、と赤く燃えた。たったこれだけの仕草が、なぜこんなにも心を突き動かすのだろう。色っぽい……!!
「かっこいい……」
半ば恍惚としながらも、自然と口から言葉が漏れていた。達樹くんは照れ臭そうに咥えていた煙草を口から離し、煙を吐き出した。
「そこまで言われたら、辞めた意味わかんなくなるな。また吸い始めようとは思わないけど……」
「……自分が吸ったことないから、憧れがあるのかな。でも、今まで誰が吸ってるの見ても不快でしかなかったのに、不思議……。達樹くんだと全然イヤじゃないし、ずーっと見てられる」
ふっと笑って、達樹くんはまた灰を空き缶に落とした。そして再び煙草を咥え、ふうっと私から顔を背けて煙を吐き出した。暗い夜空に、煙がゆっくりと溶けて行く。
「ケホ……やっぱ、久々だと咽せるな。もういい?」
「うん……ありがとう。もう、死にそう……」
「ええ!? そんなに!? もう……どうしちゃったんだよ、珍しい」
まだだいぶ長く残った煙草を空き缶に落とし、達樹くんはすぐにフリスクを口に含んだ。
「部屋に入ったらすぐ歯磨きするね」
私への気遣いが痛いほど心に沁みる。無意識に、先ほどまで煙草を持っていた達樹くんの右手を取った。
「菜々ちゃん……吸い終わってすぐは、指もタバコ臭いよ」
言われて、指先をくん、と嗅いでみた。確かに、煙草の匂いが微かに残っている。いつもなら我慢できないほど不快な匂いなのに、今はそれさえも愛おしくてたまらない。ぎゅっと手を抱き締めると、達樹くんが慌てたように言った。
「とりあえず、中に戻ろう。体冷えるよ」
はっとした。確かに、達樹くんの指先は冷たくなり始めている。部屋に戻り、達樹くんがカーテンを閉めると同時に、ぎゅっと抱き付いた。
「達樹くん……わがまま、聞いてくれてありがとう。無理させて、ごめんね」
腕を緩め、背伸びをしてキスをした。達樹くんは驚いたように体を仰け反らせた。
「菜々ちゃ……まだ、匂い残ってるって!」
そう言われても、もう自分では止められない。逃げないで、と言う代わりに達樹くんの首に腕を回した。もう一度キスすると、鼻につく煙草の匂いと口に広がるフリスクの清涼感が混じって目眩を起こしそうになる。それなのに、匂いも、味も、達樹くんを彩るスパイスのように感じられ、私は夢中になった。
「は……っ、菜々ちゃん、ちょ、待っ……」
強い力で、達樹くんに引き剥がされた。もう少し味わいたかったのに……とぼんやり考えていると、戸惑ったような達樹くんの表情が、余裕のないものに変わって行く。
「菜々……なんて顔してんだよ」
その一言に、今度は私の方が戸惑ってしまった。
なんて顔? 私……どんな顔してるんだろう。
「目ぇ潤ませて、ほっぺた赤くして……。欲しくてたまらない、って顔してる」
顔から火が出そうになる。
「そ、そんなことないもん……」
「嘘つけよ。しょうがねーなあ。姫のお望み通りに」
そう言って、達樹くんは私を抱え上げた。
「きゃあっ! もう、それやめてよお!」
「なんで? 手っ取り早いのに」
「やだやだ! 重いんだから降ろして!」
「重くねーって。危ないからおとなしくして!」
落とされては困るので、仕方なくじっとする。そんな私を見てニヤニヤする達樹くんを見上げると、悔しさが込み上げて来る。
「なんだよ、その顔。さっきの顔の方が可愛いのに」
「……だって。欲しくてたまらない……って思ってるの、私だけみたい……」
ぼそぼそ呟くと、ベッドに寝かされた。私に覆い被さり、達樹くんも低い声で囁いた。
「そんなわけねーだろ。あんなことされたら」
心臓が跳ね上がった。
こ、こんなつもりじゃなかったのに……。ただ達樹くんがかっこよくて、それで……。
そう思ったが、それは結局、達樹くんを求めているということと同じだとすぐに思い至ってしまった。さっきの顔の方が可愛い、という達樹くんの言葉を思い出し、時々は素直にならないといけないな、と考えを改めた。
「……ごめんなさい。達樹、好き……。ほしいよお……」
私の言葉に、達樹くんは目を見開いた。がっくりと私の肩口にうなだれて、耳元で囁かれる。
「菜々、反則だって……」
私の唇に噛み付く達樹くんを受け止めながら、『月下の錯綜』で観た彼の姿を思い浮かべた。『泡沫』の時はとてもこんなことはできなかったのに、『月下の錯綜』の達樹くんがどんなに自分にとってかっこ良くて色っぽくて魅力的だったのかを思い知らされる。それでも、私のリクエストに応えて、辞めていた煙草を吸ってみせてくれた達樹くんが、どんな映画やドラマの坂井達樹よりも私の心を突き動かすのだということも同時に思い知らされるのだ。そして私はまた、微かに残る達樹くんの味と匂いを記憶に留めようと、彼の首に再び腕を回すのだった。
END