078 シャングリラ後日談

□深海
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寝室には、新しい間接照明が置かれていた。先ほど見た時は、優しい色の明かりだなあと思ったが、今はその淡い明かりでさえ眩しい。激しい自己嫌悪と羞恥心でベッドの上にうずくまっていると、達樹くんがマグカップを持って来てくれた。

「菜々ちゃん、ミルクティにしたよ。大丈夫?」

「大丈夫……うれしい。ありがとう」

手のひらの中で湯気を立てるマグカップは温かく、中身を少しだけ口に含むと、優しい甘みが舌に広がった。

「おいしい……」

「よかった。ほんとに大丈夫?」

何度も何度も達樹くんを求めてしまった結果、私はすっかり足腰が立たなくなってしまい、早くご飯を作ってあげたいのに、ベッドの上から全く動けなくなってしまった。恥ずかしさと申し訳なさで消えたい気持ちになっていると、達樹くんが慌ててお茶を淹れに立ってくれたのだ。

「ごめんね、達樹くんの方が疲れてるのに……」

「いやー……そんなことないって言いたいけど、正直使い果たしたわ。もうなんも出ねえわ」

う……。

いつもなら、そんな言い方しないで! と怒るところだが、何も言い返せない。完全に私のせいなのだ。

「ごめんね……これ全部飲んだら、すぐごはんの支度するね」

「俺が何か作ろうか?」

「いい、いい! 申し訳なくて死んじゃう!」

うなだれる私とは対照的に、達樹くんは楽しそうだ。

「あはは! 俺としては、レアな菜々ちゃんを見れてラッキーだったよ。あんな積極的な菜々ちゃんが見れるんなら、たまにはああいう映画に出るのもいいかな」

その言い方に、怒ることはできないが、じろりと達樹くんを睨み付ける。が、達樹くんはニヤニヤしたまま、更に続けた。

「すげー可愛かったよ。しばらくは思い出すだけでご飯3杯はイケる」

顔から火が出そうになった。

「もお!! 達樹くんのばかばか!!」

「いてっ、いって! 菜々ちゃ……零れるって!」

漫画のようにぽかぽかと達樹くんの胸を叩く。自分のコーヒーをサイドテーブルに置き、文句を言いながらも、達樹くんはやっぱり楽しそうだ。それが、急に真剣な表情になり、私の手を握って、達樹くんははっきりと言った。

「菜々……好きだよ。俺には菜々しかいない。心配しなくても大丈夫だよ」

真っ直ぐな瞳と、飾り気のない言葉に、胸が締め付けられる。

「心配なんてしてないよ……」

「ほんとかよ。さっきはあんなに余裕ない感じだったのに」

「……!! ばかーーー!!!」

「いって!! 痛てーって!!」

今度はぽかぽかではなく、ばしばしと叩いた。

ほんとに、いじわる!

「……心配なんて、してないけど……達樹くん、あのね……」

「ん?」

私はこの前仁美と話したことを聞いてみた。「公然と彼女以外の女とイチャつける」という考え方は、本当にあるのだろうか。仁美と話していた時は、そんなことはどうでもいいと思っていたくせに、今達樹くんを目の前にすると、気になってしまう。

「んー……どうだろう、やっぱり仕事は仕事だしなあ……。でも緊張はするけどね。何度もリテイクしたくないし、できれば一発でOKもらいたいって思うし。こういう風に演技しろ、って指示の元動いてるから、イチャついてるって感覚じゃないかな……」

「でも、きれいな女優さんが肌を露出したりしたら、やっぱりラッキーだって思わない?」

「あー……えーと……うーん……菜々ちゃんにはわかりづらいかもしれないけど……なんていうか、AV観てるような感覚に近いかもなあ……。いや……思わなくはないかも。それはもう正直に言う! でもそん時だけだから!」

その言い方に、思わず笑ってしまった。

「大丈夫だよ。私だって他の俳優さんがテレビとか雑誌で脱いでたりしたら見ちゃうもん」

「なんだよそれ! じゃあ言わすなよ!」

「あはは。ねー、達樹くんどういうAV観るの?」

「もういいって! 言わすなって!」

がしがしと頭を掻く達樹くんが可愛くて、笑いが止まらない。そんな私を、達樹くんは暫く憎たらしそうに見ていたが、そのうちふっと笑って、私の肩を抱き寄せてくれた。

「はあ……よかった、仲直りできて。この十日間、気が気じゃなかったよ」

「……私もだよ……」

「実は、一時間くらいなら時間が取れた日はちょいちょいあったんだけど、一時間じゃ絶対自分が抑えられないし、菜々ちゃんと向き合ってちゃんと話したかったから、ゆっくり時間が取れる日に会いたかったんだ」

達樹くんの気遣いに、心が強く掴まれる。

「……私も、たぶん一時間じゃ抑えられなかった。ありがとう」

「うん、抑えられてなかったもんね」

「もー!! ばかばか!!」

「痛てーって!! だんだん力強くなってっから!!」

「ヘンなこと言うからでしょー!!」

今度はどかどか殴る私の手を達樹くんが掴み、そのままぎゅっと抱き締められる。

「……これからも、たぶんこういう思いさせること、たくさんあると思う。でも……本当に、俺が好きなのは菜々だけだよ」

「うん……わかってる。ごめんね……ありがとう」

達樹くんの腕の中で、ふと思い付き、尋ねてみた。

「もし……私が女優になって、達樹くんと共演してラブシーン撮ることになったら……達樹くんどう思うのかなあ?」

それを聞いて、達樹くんは私を放した。その表情はこの上なく不快感に満ちている。

「……それは絶対イヤだ。断固拒否!」

「え? なんで?」

「菜々ちゃんの乱れる姿なんて絶対誰にも見せたくないし、俺と菜々ちゃんの……そういう行為だって、二人だけの秘密にしたいから……」

苦しそうに言う達樹くんに、心が突き動かされる。

「菜々ちゃん……改めて、女優にならないっていう選択をしてくれてありがとう。自分はこういう仕事をしてるくせに、ずるいとは思うけど……俺だけの菜々ちゃんでいてほしいから、すげーうれしいよ」

「……私こそ、ありがとう。達樹くんが今のお仕事をしてたから出会えたって思ってるから、気にしないで」

「それは本当に、俺もめちゃくちゃ思う。こんな仕事してなかったら、世間やマスコミなんて気にしなくていいし、大手振って外でデートできるし、菜々ちゃんにつらい思いさせなくて済むのに……って考えても、この仕事をしてたからこそ、菜々ちゃんに出会えたから……感謝しなくちゃなって」

穏やかに語り、達樹くんは照れをごまかすようにキスをしてくれた。

「……前にも言ったけど、私は絶対、達樹くん以外の人とラブシーンなんてできない。でも、もし女優になってたとしても、私は達樹くんだけのものだよ」

そう言うと、達樹くんはもう一度コーヒーをサイドテーブルに置き、ぎゅっと私を抱き締めてくれた。

「達樹く……零れるよお」

達樹くんは私を抱きながら、反対の手で私のマグカップを取り、サイドテーブルに置いてくれた。なんとなく促されているような気になり、私も達樹くんの背に腕を回す。達樹くんは深く息をつき、私の耳元で小さく呟いた。

「……使い果たしたと思ってたけど、もうちょいイケるわ」

かっと頬が熱くなった。

「……!! もお!! 私ごはんの用意する!!」

「あはは。ありがとう」

「冷蔵庫勝手に漁るからね!!」

「うん。大盛りで!」

返事もせず、寝室を出た。逃げるようにキッチンへ走り、ぐるぐると考える。

もー、もー、ほんとに恥ずかしい! 私、なんでさっき、あんなことになっちゃったんだろう? 自分にあんな一面があったなんて、知らなかった……。

達樹くんを求める自分を思い出し、素面とは思えない醜態を晒していたと消えたくなる。

自分では気付いていなかったけど……私ってあんなに嫉妬深くて、あんなに……やらしい子だったんだ……達樹くんは口ではああ言ってたけど、イヤになったんじゃないかな……。

ぼんやりと冷蔵庫の野菜室を眺めていると、達樹くんが音もなく現れた。

「ひゃああっ!」

「うおっ! ビビったあ」

「ど、どーしたの?」

「カップ持ってきた。なんだよ、大声上げて。何考えてたの?」

う……。

目を合わせようとしない私の側に屈み、達樹くんは私の顔を覗き込んだ。

「なに。言ってみ?」

「う……私……恥ずかしすぎて……。えっと……幻滅されたんじゃないかなって……」

それを聞いて、達樹くんは大きく溜め息をついた。私の手を取って立ち上がらせ、そのままの流れで唇を塞がれる。それは徐々に濃厚になり、どんなに応えても、許さないとでも言いたげに達樹くんは私を解放してくれなかった。先ほどあんなに体中を火照らされたのに、また緩やかに体の奥に熱が戻って来る。

「んっ、ふ……、んん……っ」

どれくらいそうしていたのか、苦しくなり声を漏らすと、達樹くんはやっと唇を離してくれた。浅く息をする私の目を見つめる達樹くんの瞳は、鈍く光っている。

「……しょーもないことで悩んで……。もっかいベッド行くか? 教えてやるよ」

強い口調に、胸が高鳴る。

「……ごめんなさい。ごはん作ります」

素直に謝ると、達樹くんは漸く笑ってくれた。

「うん。何してくれるの?」

「んー、簡単なものでもいい? ご飯がたくさんあるから、オムライスにしようかな」

「おー! 久々の洋食! でも、ケチャップがたぶんあんまりないよ」

「これくらいあれば大丈夫だよ。バターライスにして、デミグラスソース作るから」

「おお……なんかすげえ。ありがとう! 楽しみ!」

わくわくを抑え切れないとでも言うように、ソファの上に胡座を掻いて私を見つめる達樹くんは、紛れもなく、いつも隣にいてくれる、優しくて温かい達樹くんだった。無邪気な笑顔を見て、心から安心する。達樹くんの言った通り、きっとこれからも、こんな思いをすることはたくさんあるのだろう。それでも……私たちの気持ちが変わらなければ、きっと二人の関係に波風が立つことはないはずだ。ご飯ができあがるのが待ち切れないように隣にやって来てくれた達樹くんの笑顔を見つめると、そう思わずにはいられなくなるのだった。



END
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