078 シャングリラ後日談

□深海
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次に達樹くんとの時間ができたのは十日後だった。ここのところ、達樹くんは週に一度は時間を見つけて会いに来てくれていたので、十日間は長く、寂しかった。その代わり、その日は夕方から体が空いたらしく、長く一緒にいられるということで、私は久し振りに達樹くんのマンションを訪れた。

「菜々ちゃん! 遠いとこ、ありがとう」

「ううん! お邪魔します」

達樹くんは私をソファに促し、紅茶を淹れてくれた。またマリナさんにもらったの? と尋ねると、実は俺が自分で選んだんだ、と少し恥ずかしそうに達樹くんは答えた。普段達樹くんはコーヒー派で、紅茶は飲まないが、コーヒーが苦手な私のために時間を割いて紅茶を選んでくれたことがあまりにも嬉しく、胸が締め付けられた。

「はあ……すっごくおいしい。達樹くん、ありがとう」

「よかった。すげー種類あるから、もう途中からわけわかんなくなっちゃって」

「ふふ……私も詳しくないよ。何だってうれしいよ」

達樹くんは答えず、自分のコーヒーに視線を落とした。その仕草に、心がざらつく。謝らなきゃ……そう思い、声を掛けた。

「達樹くん」

「菜々ちゃん」

二人同時のタイミングだった。目を見合わせて、笑い合った。

「……言おうとしてること、たぶん同じだね。菜々ちゃん、この前はごめん」

「ううん、私が悪かったの。本当にごめんなさい」

「いや、俺の方こそ……。あの時、菜々ちゃんの中の安田のイメージを早く消したいって、自分の中ですごく焦りがあって……。今思えば、そんな必要なかったのに、そのせいで菜々ちゃんを怖がらせて……本当にごめん……」

達樹くん……。

「……あのね、『シャングリラ』の千秋楽の時、クライマックスで私が泣いたこと、覚えてる?」

「……うん、覚えてるよ」

達樹くんは、それがどうしたんだろう、と不思議そうだ。

「あの時、私、達樹くんの『君を忘れることなど出来なかった』っていう台詞が……『シャングリラの旦那様』の台詞じゃなくて、『達樹くん』の言葉みたいに感じたの。もし、それが達樹くんの本心だったら、どんなに幸せだろうって思って……気がついたら涙が零れてた。この前は……その反対で、私の腕を掴んだ達樹くんが、達樹くんじゃないみたいに感じたの。それでとっさにあんなことしちゃったんだけど……」

言葉を切り俯くと、達樹くんは大きく息をついて私の肩を抱き寄せた。

「菜々ちゃん……菜々ちゃんって、すげーなあ」

「え!? どういうこと!?」

「俺のこと、すごくよくわかってくれてる……。菜々ちゃん、本当に俺のこと好きって思ってくれてんだね」

ニヤリと笑う達樹くんに、何それ! と口を尖らせると、彼は明るく笑った。

「本当に……菜々ちゃんの言う通りだよ。『シャングリラ』の時のことも、この前のことも……。あの時、『泡沫』の安田じゃなくて坂井達樹を見てほしいって思ってるうちに、『泡沫』で、昌彦じゃなくて自分を見てほしいっていう安田を演じてたことを無意識に思い出して、それが菜々ちゃんに伝わったんだと思う」

そっか……じゃあ、やっぱり、あの時の達樹くんは……。

「はー……マジで、菜々ちゃんにはかなわねーな。なんも隠し事できねーわ。するつもりもないけど」

「そ、そんなことないよ。達樹くんは俳優さんだもん。すごい演技だったよ。本当に……」

言いながら、達樹くんと早川楓のラブシーンを思い出す。

「……本当に、達樹くん……早川楓のことを好きって思ってるように見えて……」

俯いて小さく呟くと、達樹くんは私の顔を覗き込み、額にチュッとキスしてくれた。

「そう言ってもらえると、役者冥利に尽きるけど。俺としては、ああいうシーンは全部、これは菜々ちゃんだ、これは菜々ちゃんだって思いながらやってたよ」

「……舞台挨拶の時は、相手が早川楓でやりやすかったって言ってたよ」

「ああ、あれは……」

達樹くんは少し言いにくそうにした後、私から目を逸らしながら決まり悪そうに言った。

「こう言っちゃなんなんだけど……えーと……マジでどうでもいい相手っていうか……何とも思ってないからこそやりやすいっていうか……何度か共演もしてるし、距離感も掴めてるから、多少ぞんざいに扱っても大丈夫かなーっていうか……」

あんまりな口振りに、思わず笑ってしまった。

「達樹くん、ひど……!」

「いや、だって! 悪いけど……ほんとに、向こうにどう思われてもいいし、共演NGにされてもいいし、そういう意味でどう演技しても別にいいかーって……」

「も、もうやめて! おなか痛い!」

息も絶え絶えに笑っていると、達樹くんも少し言い過ぎたかと言いたげに肩を竦めた。が、達樹くんはこれでもかとだめ押しして来る。

「……早川さんって、毎回思うけどすげー距離近いし、よく言えば人懐っこいんだけど悪く言えば馴れ馴れしいんだよなあ。誰にでもああだから、元々の性格なんだろうけど」

「もう! まだ言うの?」

「いつからかわかんないけど勝手に人のこと達ちゃんとか呼ぶし。母親思い出すんだよなー。実家帰ってねーなーって思って心痛むんだよ、達ちゃんって呼ばれると……」

ブツブツ言う達樹くんに、もう私は腹筋がおかしくなりそうだった。

「あはは……。あー、もう面白すぎる。なんか、モヤモヤしてた自分がバカみたい」

「モヤモヤって?」

「……自分の彼氏がでっかいスクリーンの中で自分より何倍もきれいな女優さんとイチャイチャしてるんだよ……そりゃモヤモヤもするよ」

私の言葉に、今度は達樹くんが笑い出した。

「あはは! そんなこと言う菜々ちゃん、珍しいね。いつも割とドライなのに」

「そんなことないよ! 平気だと思ってたけど、達樹くんにとってはお仕事だってわかってても……やっぱりイヤだよ。もう、ここんとこずっと、『泡沫』のいろんなシーン思い出しちゃって、毎っ回『そのポジション私のだから!』ってキーってなってたんだから!」

言いながら、ぼすっと達樹くんの胸に顔を埋めた。

恥ずかしいけれど本当のことだ。もう、大人気ないとか芸能人の彼女の自覚がないとか、達樹くんに思われてもいい。感情は止められないし、この前みたいに、お互いが本当はどう思っているのかをわからないままでいる方がつらい。

達樹くんは暫く何も言わなかったが、彼の胸に顔を埋めたままの私の髪を優しく撫でてくれた。

「菜々ちゃん、可愛い……」

「……可愛くないよ」

「可愛いよ。安心した。全然平気なのでいくらでもラブシーンやって下さい、ってスタンスで来られたら、さすがにショックだし」

そう言って、達樹くんは私の頬を両手で掬い上げるように包み込んだ。

「菜々ちゃん。早川さんの方が菜々ちゃんより綺麗だって、本気で思ってる?」

達樹くんの瞳はどこまでも澄んでいる。ぼうっと見入っていると、彼はとんでもないことを言い出した。

「世界で一番、菜々が綺麗だよ」

体が燃えるように熱くなる。

「そ、そ、そんなわけないでしょ!」

「本当だって」

「もう! いいから放してよー!」

「放していいの?」

私の頬を覆ったまま、先ほどよりも近い距離で、達樹くんはじっと私の目を見た。

ああ……達樹くんだ、私の達樹くんだ……。

「達樹くん……」

「ん?」

「あの……あのね……」

目を泳がせ、ゴニョゴニョする私を、達樹くんは訝しむように見ている。

「……どうしたの?」

やっぱり、どうしても目を見ては言えない。私の頬を覆ったままの達樹くんの手を両手で外し、俯いて、勇気を振り絞って言った。

「……抱いて、くれる?」

ああ……言ってしまった。どう思われるだろう、怖い……。でも、どうしても、止められない。

すうっと息を吸う音が聞こえ、次の瞬間、強く抱き締められた。心臓が痛いほど早鐘を打っている。達樹くんは私の耳元に唇を寄せ、戸惑ったように言った。

「菜々ちゃん……どうしたの?」

「……どうもしない……達樹くんが欲しいの。お願い……」

どうもしない、なんて嘘だ。達樹くんは「『泡沫』の安田じゃなくて坂井達樹を見てほしい」と言っていたが、私も、『泡沫』の百合香じゃなくて加納菜々を見てほしいと、この十日間ずっと思っていた。

達樹くんは私をそっとソファに押し倒した。目を見つめると、この前みたいに手を払い除けられたら、と逡巡しているのが強く伝わって来る。体を起こし、達樹くんを反対側に押し倒した。

「菜々ちゃん……?」

驚いたような達樹くんの顔が、私の影で暗む。

「……達樹」

覆い被さると、達樹くんの頬に私の髪が掛かる。少しだけ加虐心が唆られた。そっとキスをし、そのまま達樹くんの服に手を掛けると、彼は慌てたように起き上がった。

「菜々ちゃ……自分でやるよ」

達樹くんはソファの上に胡座を掻き、膝に私を座らせた。

「……どうしたの? 大丈夫? 無理してない?」

「全然大丈夫。全然無理してない。……あの……イヤだった?」

「イヤじゃない! イヤなわけないけど! ……心配で」

いつもと反対のやり取りだ、と思いながらも、拒まれたような気になり、少しだけしゅんとする。そわそわと膝を擦り合わせていると、私の様子に気付いたのか、達樹くんは慰めるように私の耳にキスをして、そのまま耳元で低い声で囁いた。

「……ベッドに行こうか」

「……ん……」

まともに返事ができないほど、体の奥が疼いて、止まらない。ぎゅっと達樹くんにしがみ付くと、いつかのように彼は私をお姫様抱っこしてくれた。ベッドに寝かされ、組み敷かれる。達樹くんを見つめると、まだ戸惑いは消えない目をしていたが、あの時とは違う、今度こそ達樹くんだと、より強く彼が欲しくなった。

「菜々……」

甘い声に、思考が蕩ける。

「達樹……おねがい。はやく……」

私の言葉を遮るように、唇を塞がれた。この前とは違う、優しく私を味わうようなキスに、乾いていた心が潤されて行く。与えられる熱に体が悦び、溢れるように声が漏れる。

「あ、あ……、あっ……達樹……」

「菜々……気持ちいい?」

「ん……っ、きもちい……もっと……っ」

「はっ……やべー……菜々、可愛すぎる」

頭のてっぺんから爪先まで、達樹くんでいっぱいにして欲しい、達樹くんのことしか考えられなくして欲しいと、必死で彼に縋り付くも、間もなく私は思考を手放した。はしたなく、達樹くんを求める言葉を呟いている自覚はうっすらとあるのだが、もう理性では止められず、どんなに与えられてもまだ足りないと欲望のままに彼を求めてしまうのだった。
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