078 シャングリラ後日談
□深海
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九月のカレンダーを捲ると、少しだけ胸が高鳴った。達樹くんとお付き合いを始めてから、一年が経つ。あの週刊誌騒動からは半年近く経っていて、大学で指をさされたり陰口を言われたりとか、部屋の周辺をうろうろされたりとか、不気味な郵便物や隠し撮りは減っていた。達樹くんとは、少しずつ会える時間が増え始めていて、私のことを心配してくれているらしく、週に一回は時間を作ってくれている。会えても、三十分ほどで別れないといけないこともあったが、それでも私は幸せで充実していた。
「達樹くん。もうすぐ、『泡沫』公開だね」
部屋にやって来てくれた達樹くんにコーヒーを手渡しながら、私はわくわくして言った。来月、達樹くんの主演映画が公開される。達樹くんの憧れの映画監督の作品で、舞台を観て達樹くんをキャスティングしてくれたと前に話してくれたのを覚えていたので、私も本当に楽しみにしていた。
「そうだね……でも、体当たりなラブストーリーだから、菜々ちゃんに観られるのがちょっと……」
いつも、今日はこんな仕事をした、今日はロケでどこへ行った、と仕事の話を色々としてくれる達樹くんが、『泡沫』の話は殆どしてくれないので、我慢できずに話を振ってみたら、この歯切れの悪さだ。
「今までも、恋愛のドラマとか映画とか、撮って来たんじゃないの? 私も色々観たよ」
「うーん……でも、今回のは……結構、濡れ場もあったし、大人の恋愛映画って感じだから……。あそこまでの作品は、俺にとっては初めてだったから、観る人がどう感じるか心配なんだ」
もちろん菜々ちゃんの感想が一番気になるけど、と達樹くんは付け足した。
「私、今までの達樹くんの恋愛の作品観て、やきもちやいたことってないけど……そう言われるとちょっと心配だなあ」
「え、今まで一回もないの? それはそれでどうなの?」
「なんか、やっぱりテレビとかスクリーンの中の達樹くんと、今こうして隣にいてくれる達樹くんは別人っていうか……それこそ、坂井達樹と、達樹くん、って感じかも」
「いいように捉えていいのかなあ、それ……」
複雑そうな達樹くんの胸に、私は頭を擦り寄せた。
「公開されたらすぐ仁美と予定合わせて観に行く! 感想言うね」
「ありがとう……でもこえー……」
達樹くんの様子につい笑ったが、この時の私は、自分の中に眠るどす黒い感情に全く気付いていなかった。