078 シャングリラ後日談

□駆け引き
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店から百メートルほど離れた裏路地で、私は達樹くんと落ち合った。車に乗り込み、間髪入れずに達樹くんの胸倉に手を掛ける。

「達樹くんっっ!! 何考えてんの!! ろくな変装もしないでいきなり店に来るなんて!!」

「あはは。ごめんごめん」

「ごめんじゃないわ!! 私がどんな気でいたと思ってんの!! 誰か気付いたらどーするつもり!?」

私の剣幕にも、達樹くんは全く怯まない。

「ごめんって。菜々ちゃん、相当びっくりしてたね」

「当たり前でしょ!! 美咲も理沙も『イケメンが来た!』って舞い上がっちゃって、2卓に近づけないようにするの大変だったんだから!!」

「え? やきもちやいてんの?」

「……!! もお!!」

手を離し、そっぽを向いた。

全然わかってないんだから……! もし何かあったら、また会えなくなっちゃうのに!

心の中で文句を言っていると、達樹くんに手を握られた。

「ごめんね。どうしても、最後に菜々ちゃんに接客されてみたかったんだ。就職しちゃったら、もう菜々ちゃんが仕事してるところなんて見れなくなるから」

「……それなら、せめて前もって連絡してよ!」

「してたら、来ちゃダメだって言うじゃん」

「言うけど!」

だろ? と達樹くんは明るく笑った。

確かに……もし、あらかじめ来ることがわかっていたら、緊張して余計色々とやらかしてたかも……。

「それにさ、菜々ちゃんはいつだって仕事してる俺の姿が見れるじゃん。テレビでも雑誌でも。俺はこんなことでもしないと、働いてる菜々ちゃん、見れないんだよ?」

「………」

そう言われれば、確かにそうだ。でも、それにしたって、こんなやり方はずるいし、その言い方だってずるい。そんな言い方をされたら、許してあげない私の方が心が狭いヤツみたいに思えてしまう。

「菜々ちゃん、すげーかっこ良かったね。お客さんがいっぱい入って来た時」

「その前に散々色々やらかしてたよ! 達樹くんのせいで!」

「うん、それも伝わって来た。笑っちゃ悪いと思いながらもめっちゃ面白かったわ」

殴ろうかな……いや、だめだめ、相手は坂井達樹なんだから。

「でも、俺のことが気にならなくなったら、ちゃんとできてたよね? かっこ良かったよ」

「……ありがとーございます」

「ほんとだって! すげー楽しかったよ。貴重な菜々ちゃんが見れて」

やっぱり、何を言われても、許してあげる気になれない。そっぽを向いたまま手を握り返そうともしない私に、達樹くんは漸く少しだけ罪悪感を覚えたようだ。

「……そんなにイヤだった?」

「イヤだよ! 達樹くんだって、私が急に撮影現場に現れたらイヤでしょ!」

「俺全然イヤじゃない……」

「もお! 今だって……こんな、バイトの後で髪もバサバサで、料理の匂いが染み付いた体で、会いたくないよ……」

「なんだよ。そんなこと俺が気にするわけねーのに」

「私が!! 気にするの!! それに、今日は私最終日だし売り上げも良かったから打ち上げ行こうってみんな言ってくれてたのに、抜けて来たんだから!!」

そう言うと、達樹くんは急に険しい表情になった。

「……それは本当にごめん。全然菜々ちゃんの事情考えられてなかった。今からでも行って来ていいよ」

あまりの態度の落差に、当て付けがましい言い方をしたことを後悔した。抜けて来たことは自分の意志だし、達樹くんだって忙しい合間を縫ってわざわざ会いに来てくれたのに……。

「……いいの、ごめんなさい」

「いや、俺こそごめん。今日が最後だったのに……考えりゃ当たり前だよな、本当ごめん」

「ううん、大丈夫。週末、さっき提供してた子の送別会で会えるから」

そう言うと達樹くんも納得してくれたのか、それ以上何も言わなくなった。付き合ってもうすぐ二年半だが、達樹くんにこんなに声を荒げるのは初めてだ。はーっと大きく溜め息をつくと、達樹くんが話題を変えるように切り出して来た。

「菜々ちゃん……引っ越し、来週だっけ?」

「……うん」

「あの部屋に通わなくなるの、寂しいなあ」

就職に伴って、今のアパートの契約を更新せず、引っ越すことにした。以前の週刊誌騒動で、達樹くんのファンにアパートが知られてしまっていたのもあり、彼も引っ越しには賛成してくれた。あまり職場に近いのも気が引けて、職場から電車で三、四十分ほどの場所だが、今のアパートと距離は大して変わらないので、私としてはそこまで寂しさを感じていなかったが、達樹くんと何度も逢瀬を重ねた部屋を引き払うと考えると、確かに寂しくもある。

「引っ越し、手伝いたかったな……」

「ダメだよ! 引っ越しなんて昼間なんだから、近所の人に見られたら大変だって言ったじゃん!」

感情に任せてまた大声を出すと、達樹くんは私につられるように眉根に皺を寄せて、気を悪くしたような表情になった。きつい言い方をし過ぎたと少し後悔していると、達樹くんが前を向いて独り言のように呟いた。

「就職するとなると……菜々ちゃんが新しい職場に馴染めるかどうかも心配なんだけど、上司にセクハラされないかとか、飲み会に誘われてホテルに連れ込まれたりしないかとか、年の近い男の先輩に好意持たれて言い寄られたりしないかとか、すげえ色々考えちゃって……。でもそこには俺は干渉できないなって考えたら、せめて今の職場で働く菜々ちゃんの様子を見てみたくなったんだ」

その言い方に、私は怒りを忘れ、吹き出してしまった。

「いや、笑うけど! あり得なくないから!」

「あははっ! もお……達樹くん、面白すぎ! ホテルって……私、そんなに隙の多い女に見えるの?」

「そういうわけじゃないけど! 新人って大体、上の立場の人には逆らえないし!」

「大丈夫だよ。セクハラとか、ホテルに連れ込まれそうになるようなことがあったらちゃんと抵抗するし、どうしてもなら辞めるよ。男の先輩に言い寄られても、私には世界で一番優しくてかっこいい彼氏がいるもん」

そう言って達樹くんに笑い掛けると、今度は達樹くんがはーっと溜め息をついた。

「なんか、いつも思うけど……菜々ちゃんの方が俺よりずいぶん考え方が大人っぽいよなあ……」

「え? そう?」

「嫉妬したり、独占欲剥き出しにしたり、菜々ちゃんはあんまりそういうのないから……」

「私だって嫉妬するよ! この前、バラエティで早川楓と共演してイチャついてた!」

「イチャつ……ちげーって! あっちが近けーんだって!」

「どうだか。内心喜んでるんじゃないの?」

「な……」

私の言葉に、達樹くんはずい、と私の方へ身を乗り出して来た。

「聞き捨てならねえな……」

真っ直ぐ目を見つめられ、低い声で凄まれる。いつもなら怯んでしまうが、今日は私も譲れない。達樹くんの首に腕を回して、チュッとキスをした。達樹くんは驚いたように体を仰け反らせた。

「な……菜々ちゃん! 外……!」

「なによ。変装もしないで彼女のバイト先にアポなしで探り入れにくる彼氏の言うことなんて聞けない!」

そう言ってもう一度キスをした。達樹くんは固まってしまった。

「達樹、愛してる。心配しないで」

いつもなら、軽々しくこんなことは言えないが、なんとなく加虐心が唆られ、意地悪したい気持ちになってしまう。もう一度キスしようとすると、腕を取られ、ぎゅっと抱き締められた。

「わっ! 達樹くん、外……!」

「どの口が言うんだよ。……シートベルトして」

私を放し、達樹くんはシートベルトを付け、エンジンを掛けた。

「ど……どこ行くの?」

「家に戻る。もう抑えられない」

「ちょっ……待ってよ! 何時だと思って……」

「なんだよ、自分から煽っておいて。覚悟しろよ、菜々!」

「きゃあっ! 待っ……飛ばしすぎ!」

いつもより荒い運転に体を戦かせながら、先ほどキッチンの男の子が言っていた、『束縛激しい彼氏』という一言が頭に思い浮かぶ。あの、今をときめくイケメン人気俳優の坂井達樹が、こんなに束縛が激しくて、嫉妬深くて、独占欲が強いなんて、誰も想像できないだろうな。時々はその過剰な気遣いを疎ましく思うこともあるけれど、それも愛情の裏返しだと思うと、愛おしくも思えて来るから不思議なものだ。

四月から始まる新生活が少し不安でもあるけれど、いつも達樹くんが私のことを気に掛けて心配してくれていると考えると、多少の困難は軽々と乗り越えられるような気さえして来る。達樹くんの少し余裕のない表情と、ハンドルを握る筋張った左手を見つめながら、そんなことを考えて心の中でこっそりと笑ってしまうのだった。



END
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