078 シャングリラ後日談
□駆け引き
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それから、私は全く普段通りの動きができなかった。卓番は間違う、オーダーは間違う、伝票をあべこべにする……。
「菜々、どうしたの? そんなにあのイケメンが気になるの?」
「珍しいですねー。あの人レベルのイケメンは初めて見ましたけど、今までイケメンなお客さんが来ても菜々さんだけはクールだったのに!」
「そんなにタイプなの? 逆ナンしてきたら?」
「きゃー! 見たい見たい!」
「………」
今日が最終なのに、もう帰りたい……とうなだれていると、表に出た理沙の「いらっしゃいませ!」の声が何度もホールに響く。その声は止まらず、私も美咲も、理沙のフォローをしながら、何組一気に入るの……と体を強張らせた。
「菜々さん! 8組一気に入りましたっ」
は……八組!?
「案内ゆっくり。覚えてる順にお冷や出し。ひと組オーダー取ったらひと組案内!」
「はいっ!」
「美咲、ドリンクとデザート何入った?」
「生中3、ジンジャー、オレンジが同時。パフェとチーズケーキ、アフターで2つずつ」
「お冷や終わったらフォロー入る。しばらく提供任すわ」
「うん」
「菜々さん、私レジ行きます! お冷やあと31、33、11、14……」
「いいよ、見ながらやる。美咲、できたらタイミング見ながらオーダーも取って!」
「OK」
こんな時に、よりによって八組も……。考える間もなく、お客さんに呼ばれる。
「お待たせいたしました。ご来店ありがとうございます」
「お姉さん、注文もいいですか?」
「順番に伺いますので、少々お待ちくださいね」
「菜々、料理途切れたからお冷や行くわ」
「ありがと。4と6行って。それぞれ1名」
「菜々さん、残りお冷や行きます!」
「あと11と14。案内再開していいよ」
「はいっ!」
「お待たせいたしました、ご注文お伺いいたします」
「彼はこのセットで。私は……お姉さんのおすすめはどれですか?」
「えー、どれもおいしいですよ! 一番よく出てるのはこちらですね。個人的にはこちらが好きです」
「じゃあそれにします!」
「ありがとうございます。すぐご用意いたします」
「菜々さん、お冷や終わりました。オーダー待ち2組です!」
「OK。美咲のフォロー入る! オーダー待ち気にしながらラウンドして!」
「はいっ!」
優先順位を考えながらとにかく目の前の仕事をただこなしていると、不思議と達樹くんのことは忘れられて、普段の勘も戻って来た。やっと提供が落ち着くと、今度はレジが混み始めた。五組、六組と続くとさすがに流れ作業になって来るが、最後尾に達樹くんの姿を見付け、急に先ほどの緊張感が体に舞い戻って来た。今日は主に理沙がレジに立っていたのに、きっと私がレジに立つタイミングを見て並んだんだ、と容易に想像できてしまった。
「ありがとうございます……」
伝票ホルダーを受け取ると、中に伝票と一緒にメモが挟まれていた。
『終わるまで待ってる』
それは紛れもなく達樹くんの字で、仕事中だというのに、まるでラブレターをもらったかのように思わず胸が高鳴った。
「……1,155円頂戴いたします」
顔を見ることができず、俯きながら呟くと、達樹くんは慣れた手付きでタッチ決済を済ませた。
「レシートいいです。ごちそうさま」
あんなに達樹くんに怒っていたくせに、颯爽と去って行く彼の後ろ姿を見つめていると、待っていてくれる……という期待感に胸が躍ってしまうのだった。
「菜々、おつかれー! 売り上げ大台突破したよ! 打ち上げ行くでしょ?」
「ごめん! 彼氏が迎えに来てくれてるから、今日は帰る。週末美咲の最終日には打ち上げ顔出すよ」
以前の合コン騒動以来、私は彼氏がいることを周囲に隠さなくなった。もちろん、相手が坂井達樹だということは仁美しか知らないことだが。
「え〜〜!? 菜々さん、来ないんですかあ!? 彼氏さんも来ればいいじゃないですか!」
「絶対イヤだよ……」
「菜々ちゃん、来れねーの? 束縛激しい彼氏だなー」
「今日ぐらいいいじゃん! 最後なのに!」
キッチンの男の子も声を掛けてくれる。
『束縛激しい彼氏』か……まあ、間違っちゃいないかも。
そう考えてつい笑っていると、美咲が溜め息をついた。
「ダメだ。この人、聞いてない。彼氏のことしか考えてないわ」
「あ、ごめん。つい……」
「もういーですよ! でも週末は絶対来てくださいよ!」
「ごめんて! すいません、お先です。お疲れ様です!」
更衣室に向かい、はーっと息をついた。
疲れたな……普通にも疲れたけど、別の意味でも疲れた……。
鞄から携帯を取り出すと、『終わったら教えて』という達樹くんからのラインが表示されていた。『終わったよ』と返信すると、すぐに既読が付き、『お店出たら電話して』と返事が来た。
なんか、全然、悪いって思ってなさそうだなぁ……。
そう考えると、沸々と怒りが湧いて来てしまう。なんとか気持ちを抑えながら、私はやっとロッカーの鍵を開けた。