お題小説C

□094 夜のベンチ
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そして店への道すがら、俺はある決心を固めていた。

「あのさ……佐伯さん」

「はい?」

「……メアド、交換しない?」

「えっ……」

彼女は驚きを隠せないようだった。立ち止まり、俺の方に勢いよく振り向いた。しかしすぐに思い直したかのように向き直り、歩き始めた。

「……からかってるんですか?」

「っち、ちげぇって! ……仲良くなりたいんだよ、佐伯さんと」

俺がそう言うと、彼女は無表情のままうっすらと頬を赤らめた。そして、そっと鞄からケータイを取り出した。

「……いいですよ。言いますから、打ってください」

「あ、ありがとう…佐伯さん、名前なんていうの?」

さっきの自己紹介の時は、彼女だけが名前ではなく名字を名乗っていた。しかし改めて尋ねると、嫌がる素振りもなく教えてくれた。

「……まい、です。舞台の舞」

「舞い降りるの舞ね」

「舞踊の舞」

「舞姫の舞」

「………」

「………」

「……あははっ」

お! 笑った!

「変なの。よくそんなに単語が出て来ますね」

「舞ちゃんもね」

そう呼ぶと、彼女は少し体を強張らせたが、また笑って、俺に尋ねた。

「……片岡さんのお名前は?」

「いつき。樹木の樹」

「樹立の樹ですね」

「樹海の樹」

「沙羅双樹の樹」

「沙羅双樹!? なんだっけそれ!」

「えーと…平家物語?」

「平家物語! …ってなんだっけ?」

「えと…琵琶法師の……」

「ははっ、誰それ!?」

何がおかしいのか、自分でもわからないが、なんだか妙におかしかった。初対面での会話じゃねぇなコレ。

そしてそんな俺を見て、彼女も笑っている。俺にはそれがいやにくすぐったかった。

「……片岡さん、ありがとうございます。来ていただいて」

「どういたしまして。樹でいいよ」

「……恥ずかしいです」

「じゃあ、いっくんとか」

「い、樹さん!」

「あははは」

ありがとうございます、と言いたいのは俺だった。今思えば、きっとこの時から、彼女は特別だったのだ。店までの道々、俺たちはずっと笑っていた。



そんなこんなで俺と彼女は出会ったわけだが、如何せん彼女は人見知りが激しいというか、初対面の人間の前で猫をかぶるのが巧いというか……。

まあ本性は本性で可愛いところもあるから、結果オーライといえば結果オーライだ。

だけど、夜のベンチを見ると、どうしても出会った頃の彼女が心に蘇り苦笑してしまうのだった。

「ちょっと、何ヘラヘラしてんの?」

「あ、いえ、何でもありません」





END
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