お題小説C
□094 夜のベンチ
2ページ/3ページ
そして店への道すがら、俺はある決心を固めていた。
「あのさ……佐伯さん」
「はい?」
「……メアド、交換しない?」
「えっ……」
彼女は驚きを隠せないようだった。立ち止まり、俺の方に勢いよく振り向いた。しかしすぐに思い直したかのように向き直り、歩き始めた。
「……からかってるんですか?」
「っち、ちげぇって! ……仲良くなりたいんだよ、佐伯さんと」
俺がそう言うと、彼女は無表情のままうっすらと頬を赤らめた。そして、そっと鞄からケータイを取り出した。
「……いいですよ。言いますから、打ってください」
「あ、ありがとう…佐伯さん、名前なんていうの?」
さっきの自己紹介の時は、彼女だけが名前ではなく名字を名乗っていた。しかし改めて尋ねると、嫌がる素振りもなく教えてくれた。
「……まい、です。舞台の舞」
「舞い降りるの舞ね」
「舞踊の舞」
「舞姫の舞」
「………」
「………」
「……あははっ」
お! 笑った!
「変なの。よくそんなに単語が出て来ますね」
「舞ちゃんもね」
そう呼ぶと、彼女は少し体を強張らせたが、また笑って、俺に尋ねた。
「……片岡さんのお名前は?」
「いつき。樹木の樹」
「樹立の樹ですね」
「樹海の樹」
「沙羅双樹の樹」
「沙羅双樹!? なんだっけそれ!」
「えーと…平家物語?」
「平家物語! …ってなんだっけ?」
「えと…琵琶法師の……」
「ははっ、誰それ!?」
何がおかしいのか、自分でもわからないが、なんだか妙におかしかった。初対面での会話じゃねぇなコレ。
そしてそんな俺を見て、彼女も笑っている。俺にはそれがいやにくすぐったかった。
「……片岡さん、ありがとうございます。来ていただいて」
「どういたしまして。樹でいいよ」
「……恥ずかしいです」
「じゃあ、いっくんとか」
「い、樹さん!」
「あははは」
ありがとうございます、と言いたいのは俺だった。今思えば、きっとこの時から、彼女は特別だったのだ。店までの道々、俺たちはずっと笑っていた。
そんなこんなで俺と彼女は出会ったわけだが、如何せん彼女は人見知りが激しいというか、初対面の人間の前で猫をかぶるのが巧いというか……。
まあ本性は本性で可愛いところもあるから、結果オーライといえば結果オーライだ。
だけど、夜のベンチを見ると、どうしても出会った頃の彼女が心に蘇り苦笑してしまうのだった。
「ちょっと、何ヘラヘラしてんの?」
「あ、いえ、何でもありません」
END