078 シャングリラ後日談
□天邪鬼
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『お疲れ様です
こっちは終わりました
大丈夫ですか?
手伝えることないですか?』
井関くんのラインが届いたのは十八時過ぎだった。気遣いが嬉しい反面、張っていた気が途切れてしまった。
『お疲れ様
大丈夫だよ
集中できなくなっちゃうから』
すぐに返信した。井関くんの返信も早い。
『わかりました
その辺で待ってます
でも無理しないで下さい
俺のせいで気が散るんだったら今日はあきらめて帰りますから』
殊勝な内容に、少し寂しくなった。
『私も楽しみだから頑張るよ
でも待つのしんどかったら全然帰っていいからね』
送信した途端既読が付き、『好きです!』というスタンプが連続で送られて来た。
くー……かわいいやつ……。
最後に、『待ってます!頑張って下さい!』というメッセージが届いた。もう、集中もへったくれもあったもんじゃない。余程ぼーっとしていたのか、璃子の大声が飛んで来た。
「仁美ー! 手ぇ止まってるっ!」
「あ、ごめん」
「これとこれ、コード確認してからJAN出しお願い!」
「了解」
頑張るからと言ったものの、一時間やそこらでは終わらなそうだ。ぬるくなったコーヒーを口に含み、ぐっと伸びをして気合いを入れ直した。
汗だくになってなんとか仕事を片付けたのは二十時半だった。あれから、井関くんからは何の連絡もない。二時間以上も待たせてしまったが、連絡がないということは、今もどこかで待ってくれているのだろう。『終わったよ』とラインしたが、五分、十分と既読が付かなかった。会社を出て再びラインを開き、通話ボタンを押した。
『……っ、お疲れ様です……』
その声色にびっくりした。
「井関くん、寝てた?」
『すいません、休憩室で仮眠してました。すぐ行きます』
仮眠……。
「ごめんね、私もう会社出ちゃった」
『全然です! すぐ降りますね』
会社の前で落ち合った。寝ていたとは思えないくらい、井関くんはシャキッとした表情だった。
「片桐さん! お疲れ様です」
「お疲れ様。びっくりしたよ、仮眠なんて言うから」
「……すみません。最近、寝不足で」
でも今日はゆっくり眠れます、と井関くんは付け足した。
「……もしかして私のせい?」
「あ、いや、せいって言うか……まあ、片桐さんのこと考えてて、ではありますけど……」
私も井関くんのことを考えてはいたが、夜はしっかり眠っていた。
「けっこうナイーブなんだね」
「……すみません」
「なんで謝るの。井関くん悪くないでしょ」
「はい……」
「寝れてないなら、今日は早めに帰ろっか」
「えー!?」
「だってまだ月曜だし。遅くなっちゃったし」
「でも……」
「今日だけじゃないんだから。金曜でもいいし、土日もあるじゃん」
むう、と井関くんは唇を尖らせた。
「……わかりました。でも」
きゅっと手を握られた。突然過ぎて肩がびくついた。
「これくらいはいいですよね?」
こんな、会社の前で……誰が見てるかわかんないのに……。
そう思ったが、声が出せない。井関くんは都合良く「了承」と捉えたようで、手を握る力が少し強くなった。
「片桐さん……耳真っ赤です」
「っ!! うそっ!!」
「可愛い!」
「やだ!! やっぱ放して!!」
「イヤです。絶対放しません」
「もお〜〜!!」
繋がれた手は温かく、少しだけ汗ばんでいた。こっそり盗み見た指は綺麗で、ドキドキし過ぎておかしくなりそうだ。
生娘みたい、私……。恥ずかしい!!
今度は井関くんを盗み見ると、口を真一文字に結んで目を伏せていて、彼も恥ずかしいのを堪えているように見えた。ずいぶん長く待たせちゃったし、今日だけは、いいか……と、井関くんの手をそっと握り返した。
十分ほど歩き、仕事帰りによく行く居酒屋に到着した。新歓だったかで、確か井関くんとも来たことがある。小窓から中を覗いた。
「よかった、やっぱ月曜だからすいてる!」
「マジで腹減った……」
「私も……お昼食べてないもんね」
カウンターに座り、一杯だけ! と生ビールを頼んで乾杯した。
「あーー、おいしいっ! しあわせぇ」
「片桐さん、お酒好きですか?」
「うん、強くはないけどね。井関くんは?」
「俺も、強くはないけど好きです。お腹すいてるからすぐ回りそうですけど」
「あはは、ほんとだね。食べながら飲もう」
そう言ったが、井関くんは待ち切れなかったと言わんばかりにあれこれと話を振って来た。どこから通っているんだという話になり、大学の頃上京して今も一人暮らししていると私が言うと、自分は実家暮らしだと言って井関くんは小さくなってしまった。今時実家暮らしの子の方が多いし、お金も貯まるし気にしなくていいと言うと少しだけ安心したようだったが、井関くんはまた複雑そうに苦笑いして頭を掻いた。
「こういうこと、付き合う前に話しとくべきだったんでしょうかね」
「ああ。それ知ってたら付き合わなかったのに! みたいなことが出てくるかもってこと?」
「すみません。ガッカリしませんか?」
「思わないよ! 私だって、一人暮らしはしてるけど料理……っていうか家事全般苦手だし、お金もないよ。ガッカリする?」
「そんなことないです。俺だって新卒でお金なんてないし、家事は2人で協力できるじゃないですか」
……ほんとに、いい子だなあ。
「そうだね。でも2人してお金ないのはマズいね。仕事頑張らないと」
「ほんとですね。頑張ってデート代稼ぎましょう」
そう言って笑う井関くんに、私も気になっていたことを口にした。
「あのさ。敬語じゃなくていいよ?」
「えっ!?」
「だって、彼氏でしょ」
「そ、そうですけど。えっと……確かに、そうですね。でも、急には……」
「まあ、急には難しいか。あ、会社では敬語だよ!」
「いやもっと難しいですね……」
手で口を覆い、少し考えるように視線を宙に泳がせてから、井関くんはゆっくりと私を見た。
「あの。じゃあ、えーと……仁美さん……って呼んでいいですか?」
たったこれだけのことで、ドキッとしてしまった。
「ん……うん……まあ……」
「……あれ? 嫌ですか?」
「あ、違う、嫌じゃないの。あんまり自分の名前好きじゃないから」
「えっ!? いい名前じゃないですか!」
「いい名前だとは思うけどさ。私たちの親世代に多い名前じゃない? 私の同期の璃子とか、井関くんの同期の穂乃香ちゃんとか沙羅ちゃんとか、可愛いじゃん」
「でも、『仁』って字、慈しみとか、親しみとか、全ての人に自分と同じ仲間として接する心、って意味があるんですよ。仁美さんにぴったりの名前だと思います」
え、ええ……!?
「……まさか、わざわざ調べたの?」
「はい! 仁美さんのこと好きですから」
「も、もういい。わかった! やめて……」
そんなこと初めて言われた……また泣きそうになっちゃう……。
うれしいやら恥ずかしいやらぐちゃぐちゃになった感情を、生ビールを呷って無理矢理鎮めた。
「……じゃあ、私も『翔くん』って呼ぶね」
「うわっ! 嬉しい……! 俺の名前覚えてくれてたんですね!」
「社員証にもでっかく書いてるし、ラインの名前もそうでしょ」
「嬉しい……もっかい呼んでください」
「……翔くん」
「あ〜〜!! 生きててよかったぁ!!」
「もう! 何それっ! しつこいようだけど、会社では『片桐さん』と『井関くん』だからね!」
「はい! 任せて下さい!」
ほんとかなあ。……って言いながら、私もちょっと心配だけど……。
それでも、心配よりもこれからの楽しみの方が勝ってしまう。いちいち、忘れていた初々しい感情に戸惑いながら、それも悪くないと思う自分にも気付かされていた。