078 シャングリラ後日談
□翻弄
13ページ/13ページ
部屋に足を踏み入れた途端、どっと疲れが押し寄せた。靴を脱ぐ気にもなれずにいると、達樹くんが後ろから声を上げた。
「菜々ちゃん、とりあえず手洗って座ろう」
そういえば、この部屋に越して来てから、達樹くんを招くのは初めてだ。
「あの手紙が、玄関に飾ってある」
壁を見ながら、達樹くんが呟いた。以前、達樹くんが海外ロケのためにマレーシアへ発った時に、現地から送ってくれた何枚ものポストカードを、私はコルクボードにひとつひとつ大切に飾っていた。それを以前の部屋ではベッドの側の壁に飾っていたが、今は玄関の壁に飾っている。
「朝出かけるのが億劫でも、見たら元気になるし……疲れて帰って来ても、見たら、慰めてくれてるような気がして……」
私も壁を見ながら呟くと、肩に腕が回された。声を上げる間もなく、唇を塞がれた。
「ん……っ! ふ……、んん……っ」
「は……っ、菜々……」
扉に押さえ付けられると、ガタ、という耳障りな音に、体が戦いた。トレンチコートのボタンに手を掛けられ、驚いて声を上げた。
「やっ、達樹くん! 待っ……」
「待たない」
バサ、と廊下にコートが投げ捨てられた。
「やだあ! こんなとこでっ……!」
顔を背け、ぐいぐいと達樹くんを押し退けた。達樹くんは一瞬、悲しそうな顔をしたが、私の姿を見て、目を瞬かせた。
「菜々ちゃん、それ、制服?」
はっ……。
わ、忘れてた!!
「あ……今日、金曜日だから、洗濯しようと……。でも、着替えるのがめんどくさくて……」
うわっ、どうしよう……こんな姿……。
恥ずかしいのと、横着したのがバレたことに決まりが悪くなり、そわそわと袖を弄んだ。達樹くんは暫くまじまじと制服を眺め、ぎゅっと私を抱き締めた。
「あーーー……可愛い!! すっっげえ似合うよ!!」
「なっ……こ、こんなの似合っても、うれしくない……」
いわゆる、フツーのOLの制服で、白いブラウスに、グレーのチェックのベストに、黒のタイトスカートという、なんの面白味もないデザインだが、何がそんなにいいのか。
「男は制服に弱いんだよ。ラジオでも言ってただろ?」
「……言ってた。コスプレの話してた時でしょ」
「はーーもーーツイてる! 写真撮っていいかな」
「ムリ!! 勘弁して!!」
逃げるように靴を脱ぎ捨て、手を洗ってうがいした。その間も達樹くんはずっと私について回り、私の姿を観察するので、もう居心地が悪過ぎて、着替えを怠った自分を呪いたくなった。
「もお、そんなに見ないで! 私着替える!」
「いやまだダメ! 目に焼き付けるから!」
「もー、もー、ばか!!」
肩を叩こうとすると、手を取られ、真っ直ぐ目を見つめられた。
「……こんなに可愛い子が新卒で入って来たら、そりゃあちょっかい出したくもなるよなあ」
「なっ……なにそれ!」
「菜々ちゃん。心配しなくても、あいつ俺のことバラしたりしないと思うよ。大丈夫」
「えっ……なんで?」
「なんとなく。ただの勘。でも、もしまた何か言われたりされたら、すぐ俺に言って」
そう言って、達樹くんはチュッとキスしてくれた。
「菜々ちゃん、お願いがあるんだけど……」
「なに?」
「俺がキスしたら、『坂井さん、ダメですよ』って言ってみて」
「はああ!!?」
「お願い。マジで。お願い!」
「やっ、やだ! 絶対イヤ!!」
「いやマジ頼むって! 今日だけ!」
「もお〜〜……何それっ! 達樹くん、監督みたい……」
「あはは! ほんとだね」
じゃあいくよ、用意! と、本当に監督のようなことを言って、達樹くんは両手で私の肩を掴んだ。
私、まだやるって言ってないのに!!
半ば強引に口付けられ、体が強張る。唇を離し、私を見つめる達樹くんは……達樹くんではなく、俳優・坂井達樹の表情だった。一瞬、目を逸らしてしまったが、肩に感じる達樹くんの強い力に戦き、ゆっくりと顔を上げ、私も彼の目を見つめた。
「坂井さん……ダメですよ……」
絞り出すように呟くと、達樹くんがニヤリと笑った。
「OK! 頂きました! 菜々ちゃん最高!!」
「も〜〜……ほんとにばか!」
「全然演技指導してないのに、希望通りの演技だった! 『坂井さぁん、ダメですよ☆』みたいな感じだとちょっと違うから! さすがだなあ! もし菜々ちゃんが今の会社に嫌気さして辞めることになっても、すぐ女優になれるわ! ならせないけど!」
よくしゃべるなあ……何がそんなにいいの……。
ぐったりする私を気にも留めずに、達樹くんは私にしがみ付いて大はしゃぎしている。
もう、ほんとに、さっきの修羅場が嘘みたい。
「二度とやらないからね……」
「いやー……できればあと二、三回聞きたいな」
「もう! 調子乗って!」
恥ずかしさをごまかすように、ぼすっと達樹くんの胸に顔を埋めた。
「菜々ちゃん、ありがとう。めちゃくちゃ可愛かった。好きだよ」
「……喜んでもらえて、良かったです。着替えてきます」
ふらり、と踵を返したが、手首を掴まれ、また達樹くんの腕の中に閉じ込められた。
「もう待たないよ」
気付くと、ベッドサイドに追いやられている。そっと押し倒され、啄むように何度もキスされた。
「んっ……や……はっ、達樹く……」
「菜々……可愛い」
「や……!」
さっきはあんなに強引だったのに……こんなのずるい……。
「菜々……もう一回、さっきの言って?」
「えっ!? い、イヤ……!」
「言ってよ。頼むから」
そう言いながら、達樹くんは私のベストのボタンを寛げた。反射で、思わず声を上げた。
「やっ……! さ……坂井さんっ、ダメですよ……!」
「うわ……すげーいい。エロ……」
「いやっ! ばか……!」
「菜々、もう一回」
「もういやっ! 言わないっ」
「言えよ。ほら」
強い口調に、心臓が掴まれる。いつの間にかベストのボタンは全て外され、ブラウスのボタンにまで手が掛けられた。ぎゅっと目を瞑り、半分自棄になりながら口を開いた。
「もうっ……! 坂井さん、だめ……! やめてください……!」
「あー……菜々、完璧。マジで、いけないこと、してるみたい」
「ばかっ! 変態っ! もおやだあ……」
泣きそうになりながら抗議すると、また、唇に噛み付かれた。どんなに罵っても、こうして口付けられると、もう何も言えなくなってしまう。絆されそうになっていると、するり、とスカートの中に達樹くんの指が伸びて来た。
「んっ! ん……っ、ふ……!」
体を強張らせたが、達樹くんの強い力には敵わない。ぬるりとした感触に驚き、瞑っていた目を開けると、達樹くんは唇を離し、ニヤ、と笑った。
「すげえ濡れてる……。キスしかしてないのに」
顔から火が出そうになる。
「全然、イヤじゃねえんだな。こういうの」
「やだっ! ばかっ! やめて……!」
「説得力ねえよ」
まだニヤニヤ笑う達樹くんに、今度こそ泣きそうになる。自分でも驚いているのだ。まるで本当に、職場で、達樹くんに抱かれているみたいに思えて……。ドキドキして、でも……それだけで、自分の体が、こんなことになってしまうなんて……。
「もう……おねがい……意地悪しないで……」
呟くと、とうとう涙が零れた。すると、達樹くんは漸く、いつもの優しい笑顔を見せてくれた。
「菜々……誰にも、傷付けさせない……。無事で、本当に良かった……」
達樹くんの掠れた声に、胸が締め付けられた。
「達樹くん……ありがとう。愛してる……」
深く口付けられても、もう先ほどのような焦燥感はなく、いつまでもこの唇を味わいたいと舌を絡めた。
私も、他の誰にも、傷付けられたくない……私を傷付けていいのは、達樹くんだけだ。
私のこの身も心も、全て達樹くんのものにして欲しいと、訴えるように彼に腕を伸ばし続けた。