078 シャングリラ後日談

□翻弄
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部屋に足を踏み入れた途端、どっと疲れが押し寄せた。靴を脱ぐ気にもなれずにいると、達樹くんが後ろから声を上げた。

「菜々ちゃん、とりあえず手洗って座ろう」

そういえば、この部屋に越して来てから、達樹くんを招くのは初めてだ。

「あの手紙が、玄関に飾ってある」

壁を見ながら、達樹くんが呟いた。以前、達樹くんが海外ロケのためにマレーシアへ発った時に、現地から送ってくれた何枚ものポストカードを、私はコルクボードにひとつひとつ大切に飾っていた。それを以前の部屋ではベッドの側の壁に飾っていたが、今は玄関の壁に飾っている。

「朝出かけるのが億劫でも、見たら元気になるし……疲れて帰って来ても、見たら、慰めてくれてるような気がして……」

私も壁を見ながら呟くと、肩に腕が回された。声を上げる間もなく、唇を塞がれた。

「ん……っ! ふ……、んん……っ」

「は……っ、菜々……」

扉に押さえ付けられると、ガタ、という耳障りな音に、体が戦いた。トレンチコートのボタンに手を掛けられ、驚いて声を上げた。

「やっ、達樹くん! 待っ……」

「待たない」

バサ、と廊下にコートが投げ捨てられた。

「やだあ! こんなとこでっ……!」

顔を背け、ぐいぐいと達樹くんを押し退けた。達樹くんは一瞬、悲しそうな顔をしたが、私の姿を見て、目を瞬かせた。

「菜々ちゃん、それ、制服?」

はっ……。

わ、忘れてた!!

「あ……今日、金曜日だから、洗濯しようと……。でも、着替えるのがめんどくさくて……」

うわっ、どうしよう……こんな姿……。

恥ずかしいのと、横着したのがバレたことに決まりが悪くなり、そわそわと袖を弄んだ。達樹くんは暫くまじまじと制服を眺め、ぎゅっと私を抱き締めた。

「あーーー……可愛い!! すっっげえ似合うよ!!」

「なっ……こ、こんなの似合っても、うれしくない……」

いわゆる、フツーのOLの制服で、白いブラウスに、グレーのチェックのベストに、黒のタイトスカートという、なんの面白味もないデザインだが、何がそんなにいいのか。

「男は制服に弱いんだよ。ラジオでも言ってただろ?」

「……言ってた。コスプレの話してた時でしょ」

「はーーもーーツイてる! 写真撮っていいかな」

「ムリ!! 勘弁して!!」

逃げるように靴を脱ぎ捨て、手を洗ってうがいした。その間も達樹くんはずっと私について回り、私の姿を観察するので、もう居心地が悪過ぎて、着替えを怠った自分を呪いたくなった。

「もお、そんなに見ないで! 私着替える!」

「いやまだダメ! 目に焼き付けるから!」

「もー、もー、ばか!!」

肩を叩こうとすると、手を取られ、真っ直ぐ目を見つめられた。

「……こんなに可愛い子が新卒で入って来たら、そりゃあちょっかい出したくもなるよなあ」

「なっ……なにそれ!」

「菜々ちゃん。心配しなくても、あいつ俺のことバラしたりしないと思うよ。大丈夫」

「えっ……なんで?」

「なんとなく。ただの勘。でも、もしまた何か言われたりされたら、すぐ俺に言って」

そう言って、達樹くんはチュッとキスしてくれた。

「菜々ちゃん、お願いがあるんだけど……」

「なに?」

「俺がキスしたら、『坂井さん、ダメですよ』って言ってみて」

「はああ!!?」

「お願い。マジで。お願い!」

「やっ、やだ! 絶対イヤ!!」

「いやマジ頼むって! 今日だけ!」

「もお〜〜……何それっ! 達樹くん、監督みたい……」

「あはは! ほんとだね」

じゃあいくよ、用意! と、本当に監督のようなことを言って、達樹くんは両手で私の肩を掴んだ。

私、まだやるって言ってないのに!!

半ば強引に口付けられ、体が強張る。唇を離し、私を見つめる達樹くんは……達樹くんではなく、俳優・坂井達樹の表情だった。一瞬、目を逸らしてしまったが、肩に感じる達樹くんの強い力に戦き、ゆっくりと顔を上げ、私も彼の目を見つめた。

「坂井さん……ダメですよ……」

絞り出すように呟くと、達樹くんがニヤリと笑った。

「OK! 頂きました! 菜々ちゃん最高!!」

「も〜〜……ほんとにばか!」

「全然演技指導してないのに、希望通りの演技だった! 『坂井さぁん、ダメですよ☆』みたいな感じだとちょっと違うから! さすがだなあ! もし菜々ちゃんが今の会社に嫌気さして辞めることになっても、すぐ女優になれるわ! ならせないけど!」

よくしゃべるなあ……何がそんなにいいの……。

ぐったりする私を気にも留めずに、達樹くんは私にしがみ付いて大はしゃぎしている。

もう、ほんとに、さっきの修羅場が嘘みたい。

「二度とやらないからね……」

「いやー……できればあと二、三回聞きたいな」

「もう! 調子乗って!」

恥ずかしさをごまかすように、ぼすっと達樹くんの胸に顔を埋めた。

「菜々ちゃん、ありがとう。めちゃくちゃ可愛かった。好きだよ」

「……喜んでもらえて、良かったです。着替えてきます」

ふらり、と踵を返したが、手首を掴まれ、また達樹くんの腕の中に閉じ込められた。

「もう待たないよ」

気付くと、ベッドサイドに追いやられている。そっと押し倒され、啄むように何度もキスされた。

「んっ……や……はっ、達樹く……」

「菜々……可愛い」

「や……!」

さっきはあんなに強引だったのに……こんなのずるい……。

「菜々……もう一回、さっきの言って?」

「えっ!? い、イヤ……!」

「言ってよ。頼むから」

そう言いながら、達樹くんは私のベストのボタンを寛げた。反射で、思わず声を上げた。

「やっ……! さ……坂井さんっ、ダメですよ……!」

「うわ……すげーいい。エロ……」

「いやっ! ばか……!」

「菜々、もう一回」

「もういやっ! 言わないっ」

「言えよ。ほら」

強い口調に、心臓が掴まれる。いつの間にかベストのボタンは全て外され、ブラウスのボタンにまで手が掛けられた。ぎゅっと目を瞑り、半分自棄になりながら口を開いた。

「もうっ……! 坂井さん、だめ……! やめてください……!」

「あー……菜々、完璧。マジで、いけないこと、してるみたい」

「ばかっ! 変態っ! もおやだあ……」

泣きそうになりながら抗議すると、また、唇に噛み付かれた。どんなに罵っても、こうして口付けられると、もう何も言えなくなってしまう。絆されそうになっていると、するり、とスカートの中に達樹くんの指が伸びて来た。

「んっ! ん……っ、ふ……!」

体を強張らせたが、達樹くんの強い力には敵わない。ぬるりとした感触に驚き、瞑っていた目を開けると、達樹くんは唇を離し、ニヤ、と笑った。

「すげえ濡れてる……。キスしかしてないのに」

顔から火が出そうになる。

「全然、イヤじゃねえんだな。こういうの」

「やだっ! ばかっ! やめて……!」

「説得力ねえよ」

まだニヤニヤ笑う達樹くんに、今度こそ泣きそうになる。自分でも驚いているのだ。まるで本当に、職場で、達樹くんに抱かれているみたいに思えて……。ドキドキして、でも……それだけで、自分の体が、こんなことになってしまうなんて……。

「もう……おねがい……意地悪しないで……」

呟くと、とうとう涙が零れた。すると、達樹くんは漸く、いつもの優しい笑顔を見せてくれた。

「菜々……誰にも、傷付けさせない……。無事で、本当に良かった……」

達樹くんの掠れた声に、胸が締め付けられた。

「達樹くん……ありがとう。愛してる……」

深く口付けられても、もう先ほどのような焦燥感はなく、いつまでもこの唇を味わいたいと舌を絡めた。

私も、他の誰にも、傷付けられたくない……私を傷付けていいのは、達樹くんだけだ。

私のこの身も心も、全て達樹くんのものにして欲しいと、訴えるように彼に腕を伸ばし続けた。
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