お題小説B

□081 息遣い
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081 息遣い

俺は田崎良弘二十二歳。就職して半年が経ち、やっと仕事にも慣れて来た。休みは少ないが先輩や同僚との飲み会が楽しく、最近酒が美味いと思えるようになったのもそのせいだろう。学生時代の友達に会う機会は減ったものの、仲間より一足早く車を手に入れた奴に足になってもらいながらたまに出かける週末は充実していた。付き合って三年になる彼女との仲も良好で、近頃はケンカすることも減って来た。彼女は一つ年上で、社会人歴は俺よりも先輩だ。金が貯まって生活が安定したら、将来のことも考えねぇとな、とぼんやり考え始めた、十月の終わりだった。



「妊娠したの」



突然だった。



「……は?」

「妊娠したの」

「いや……」

「妊娠したの」

「もういいわ! わかったっつの! ……えっマジで?」

「うん。病院にも行ってきた。3ヶ月だって」

言ってから行けよ。

声にならないツッコミは雰囲気に流された。

「……困ってるの?」

彼女は至って冷静だった。取り乱す俺が滑稽だとでも言いたげだった。

「困っ…てなくはないけど」

「困るようなこと?」

「いや…ちょ」

「どうするの? もう私のおなかの中、あんたの赤ちゃんがいるんだよ。あんた父親なんだよ」

「………」

何も言えなかった。ちゃんとしてたのにとか、まだ22だしとか、仕事始めたばっかりだしとか、浮かぶのはマイナスな要素ばかりだった。

「ねえ…良弘」

彼女の表情が曇り始めた。当たり前だ。彼女に落ち度は無い。付き合って3年、信じてきた男の子供を身ごもって、いざ打ち明けた相手の態度がこれだもんな。

それでも俺は踏ん切りが付かなかった。言葉を発そうとしても唇が乾いてまともに機能してくれない。部屋にはテレビの音だけが空しく響いていた。俺は責任を回避したくなり、彼女に問い返した。

「……じゃあ、佐和は……どう思ってんの?」

俺のその言葉に、彼女はさっと青ざめた。

「どう思ってんのって何!? 私が将来を考えられないような男の子供を孕むとでも思ったの!?」

「え、さ」

「あんたって最低!! もうやだ信じられない!! 自分だけが悩んで苦しんでるんじゃないのよ!!」

さっきまで青かった彼女の顔は真っ赤だった。俺は返す言葉が見つからなかった。

「私だってどんなに考えて、あんたに黙って堕ろそうと思ったか……なのに……」

そして彼女は泣き出した。小さな手で覆われた顔はまた青ざめていた。俺は何故かはっと気が付いて、彼女の側へ寄った。

「さ、佐和」

「何よ!!」

彼女は俺の伸ばした腕を振り払い、そう叫んでふらついた。俺は咄嗟にまた腕を伸ばした。

「佐和、あのさ」

「……何よ」

「あの……よく知らないけど、身重の人はあんまり興奮したり叫んだりしない方がいいんじゃない?」

彼女は固まった。顔を覆った手をどけて、真っ赤な目で俺を見た。俺は何となく居た堪れない気持ちになった。そして、しばらくして彼女は突然吹き出した。

「あはは……変なの」

「へ、変って?」

「ううん、ごめんね、変じゃない」

彼女は俺の手を外して、涙を拭った。

「本当に、父親みたいだね」

彼女は笑った。その笑顔は温かだった。

「佐和も、母親って感じだ」

俺もやっと笑えた。さっき外された彼女の手を取って、言ってみた。

「じゃあ……結婚しようか」

「え!?」

「おま、叫ぶなって」

「あ……ゴメン……え、本当?」

「うん……いい?」

彼女の目を見ては言えなかったけど、擦り寄ってくる彼女は怒ってはいないようだった。俺はふと思い付いたことを切り出してみた。

「佐和、あのさ、ちょっとお願いが……」

「なに?」

「お腹に耳あててみていい?」

俺は至って真剣だったのに、彼女にはそれがおかしかったらしく、彼女はまた吹き出した。

「まだ3ヶ月なんだから、何もわかんないよ」

「えー…そうなの?」

項垂れる俺を哀れに思ったのか、彼女は小さく溜め息をついて手招きしてくれた。

「ほら」

俺は彼女の前に跪いて、そっと耳を彼女のお腹に当てた。何も聞こえないし何もわからない。色んなところに耳を当て直していると、彼女が抗議の声を上げた。

「ちょっと、くすぐったいからもうやめてよ」

「えー…だってなんも聞こえないんだもん」

「だから何も……ひゃ!」

きゅう、と音が聞こえた。

「……! 今なんか言った!」

「バカ! もう離れて! それ違う!」

彼女は俺を振り払って、俺に背を向けて俯いた。

「もうやだー、超恥ずかしー」

聞こえないような小さい声で、何かごにょごにょ言っている。その姿が愛おしくなり、俺は彼女を抱き寄せた。

「わ! どうしたの?」

「佐和、こっち向いて」

振り向く彼女にキスをして、今度はぎゅっと抱き締めた。

「佐和……結婚しよう」

「……うん」

彼女はまた涙ぐんでいたけど、その表情は嬉しそうに見えたのは、俺の勘違いじゃないはずだ。

あの時確かに彼女のお腹からは何の音も聞こえなかったけど、何故か新しい命の息遣いさえも、俺には感じられたような気がした。

父親になる。足が竦むほどの重圧に崩れ落ちそうになるけど、それは目の前にいる彼女も同じなのだろう。いや、彼女はこれから、その命を俺よりも小さな体で育まなければならない。

俺もがんばりたい……でも、何をがんばればいいんだろう? 俺に出来ることは何なんだろう? 子供が産まれてくるまでに、三人が幸せに暮らせる環境を作り出せるだろうか?

「どうしたの、良弘。黙りこくって」

「あ、いや、ちょっと……」

「……やっぱり、ほんとは結婚なんて嫌なんじゃないの? まだ若いし遊び盛りなのに……」

「なっ、ちげーよ! ただちょっと……俺が父親になんて、大丈夫かなと……」

そう言うと彼女は微笑んだ。

「私もいいお母さんになれるか、心配だよ。だから……一緒にがんばろうね」

柔らかい彼女の笑顔に、救われた気がした。

この笑顔を守っていけるようにしよう。いつも笑ってる母ちゃんの方がいいに決まってるもんな。



さっきまで不満やら不安やらでいっぱいだった頭は、きっとなるようになるはずだという根拠の無い自信に侵食されてしまっていた。

勇気が湧いてくるのは、佐和がいるからなんだろうな。

無意識に握った手はどこまでも温かく、まるで自分たちの穏やかな未来を予言しているかのようにさえ思えるのだった。





END
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