カガツツ

□Without me
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 キミちゃんももう中学生だし。
 と、一人部屋を与えられた時に一番喜んだのは妹だった。必然的に、彼女にも自分の城が与えられる事になったので。
「キミちゃん? 入っていーい?」
「あー、うん」
 母親はいつも扉の前で断ってから入ってくる。それが恵まれている事だと、筒井公宏は知らない。
 公共放送の囲碁講座のテキストに夢中な息子を気にせず、彼女は押入を開けた。無理矢理2人の子供に部屋を与えた事で、広くはない家の荷物は長男の部屋の押入にも詰め込まれざるを得なかったのだ。
「あらー? キミちゃん知らない?」
「何?」
 筒井はこういう時に顔を上げるのを厭わない。
「お風呂の素」
「さあ」
 入浴剤の事だろうが、何故そんな所に入っているのか。筒井は寝転んでいたベッドに起き上がった。
「お中元でもらった箱のなんだけど。ほら、日本各地の温泉の」
「お中元なら前の方にあるんじゃないの」
「そのはずよねえ」
 地層を前に、母親は発掘を始める。
「手伝う?」
「ううん、いい」
 こうなったら彼女はカンブリア紀まで遡っても発掘するだろう。腕まくりがそれを示している。
 床に積み上がりどんどん広がっていく荷物に、筒井は肩をすくめた。親族には「キミちゃんは外側も中身もお母さん似だねえ」と言われる。どこがだろう。
 と、本人だけが疑問に思っていた。
「あった!」
 母親は、隙間に押し込まれていた箱をついに見つける。
「これこれ、箱根に白川、熱海……あ、そうだキミちゃん」
「え?」
「この間、お友達と行ったでしょ箱根。楽しかった? お湯は良かった?」
 広げられた荷物の真ん中で無邪気に訊く母親に、
「……」
筒井はすぐに答えられなかった。ざあっと血が下がる。
「あら、良くなかった?」
「……ううん、ご飯おいしかったし、温泉も良かったよ。露天風呂とかあって、気持ち良かった……」
 言いかけて、温泉の話なのにその感想が二重の意味を持っている気がして筒井の頬は逆に赤くなる。
「そっかぁ、いいなあ。まあ今日の箱根のお風呂はそれには勝てませんが、よいしょ」
 筒井の顔の百面相に気付かず、母親は押入に荷物を入れだす。どんな詰め込み方でも、最終的に入ってしまえば良しという感じだ。
 筒井の整理整頓が割ときちんとしているのは、彼女が反面教師になっていた。
「お……お母さん、手伝おうか?」
「いい。キミちゃんお風呂の支度しなさい、今もうお湯溜めてるから」
 一生懸命になった彼女はあまり周りが見えない。息子が自分の熱い頬を小さく叩いて、悪夢の様な思い出を忘れようとしているのにも気付かなかった。





 悪夢というのは、忘れられない。良い夢はすぐ忘れるのに。
「ああー」
 兄が先に風呂に入った事が気に食わない思春期入り口の妹と口喧嘩をしてから、筒井は部屋に戻った。髪はその間にほとんど乾いてしまった。
 今夜は妹の理不尽なことに正面から立ち向かう気力がなかった。負けが決まっているケンカでも、筒井は受け流せない方なのだが。
 全て、母親の質問のせいだ。
「思い出しちゃった……」
 化学薬品の入ったお湯は、あの旅館の温泉に似ているかどうか分からなかった。かの地のお湯の匂いやそんなことはもうあまり覚えていない。
 その後に起きたことが衝撃的過ぎて。
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