サエアシ

□マーズローの法則
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「海に行きたいなあ」


 その一言で、いつの間にか冴木がハンドルを握る事になっていた。
 「そのうち」と逃げ、仕事に追われしているうちに、夏は盆を過ぎて残暑の季節になる。
「もうクラゲがいますよ」
 冴木の、中止を期待した言葉を芦原はスルーした。
「俺、泳がないもん」
「……。泳がないで何で海に行きたいんですか」
「なんとなく。しばらく行ってないし。リフレッシュ?」
 語尾を上げて言うな、俺が知るか。
 冴木は何かをひっくり返したいのを堪えて、
「じゃあ、他の奴も誘って……日帰りなら千葉辺りが」
と短い前髪をかきあげる。
「あ、冴木くん富士額だー。てゆーか、日本海が見たいんだよね。日本海の荒波が!」
「日本海? ……新潟とかですか」
「鳥取でもいいよ」
「それは一人で行って下さい」
「つれないなあー」
 芦原は子どもの様に唇をとがらせた。
「砂丘だよー?」
「サハラだろうとゴビだろうと行きません。新潟なら車を出します」
 冬ならスキーの道行きだ。
「新潟かあ……カニはいつがシーズンかな?」
 芦原の、答えを求めている様で求めていない質問は途切れた。
「あ、そろそろ時間だよ」
 助かった。
 冴木はくるくる髪の後ろについて、午後の対局場に向かう。千葉も鳥取もサハラも頭から追い払う。



 さて、誰かを誘わなければ。
 最初に浮かんだ、夏の海が似合うイメージの弟弟子は即答した。
「無理っす」
「和谷……行きたくないのか海」
「だってもうクラゲいるじゃないすかー。俺、小さい時に刺されてから誕生日過ぎての海には近付かない事にしてるんです」
 はたして、説得は失敗した。
 「つーか、何で芦原さんと二人じゃダメなんですか」という問いに、明確な答えが返せなかったのが敗因だ。
 他の面子に当たっても、運に見放されたらしく色良い返事はもらえなかった。冴木がそれを芦原に伝えると、
『まあ、しょうがないね。皆忙しいんだから』
ごくあっさりした返事が電波の向こうから来る。
「そうですね……」
『もし冴木くんが嫌じゃなきゃだけど』
「え?」
 意味が掴めず、冴木は問い返した。
『オレと2人になんのがさ』
「……」
 見透かされている。
 その上、選択をこっちに投げてきた。冴木はどう答えるべきか迷って、
「どっちでもいいですけど、俺は」
ほとんどそのまま投げ返す。
「……嫌だって言ったらどうするつもりなんですか」
 足した言葉は、いやに冷たく響いた。
『どうしようかねえ。しょうがないから別の人と行くよ』
 芦原は、この電話で2度目の「しょうがない」を言う。何事も問題がないかの様に。最初から諦めている様に。
「……いや、別にいいです。どうせ暇ですから」
 俺も海見たいですし、と冴木は小さな意地悪を詫びるみたいに付け加えた。黒いテーブルの上のグラスの中で、氷が微かな音をたてて解ける。
『ほんとにー? 無理しなくていいよ?』
「いいんです。じゃあ明後日に」
 電話を切って、冴木はため息をついた。何だか、芦原も今ごろため息をついている様な、そんな気がした。



 
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