たけだ家・血と絆

□血と絆―天青編―
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 ―SIDE晴信―



 朝早く弟の信繁が井戸の側で顔を洗っていた。


「信繁」
「あ、兄上、おはようございまする」
 濡れた顔を急いで手ぬぐいで拭いて、頭を下げた。
 瞬時、難しい表情をするが、信繁は気づかない。


「おはよう。今朝も大分冷えるな」
 辺りは昨夜降った雪で白く輝いていた。

「まだまだ、これからでございまする」
 穏やかな表情を浮かべる信繁は、雪に閉ざされるのを不快には思ってないようである。

 ふと、信繁の足元に麻のずた袋があるのに気づいた。米俵の半分ぐらいだろうか…。定まった形をしていないのが気になった。


「何だそれは?」
 きいてみた。
「あぁ、兄上の気にとめるようなものではありませぬ」
 と、その時、グググと、信繁の腹が鳴った。

「朝飯はまだか?腹が減っては戦に勝てぬというからな、きちんと食べるんだぞ」
「はい、お気遣いありがとうございます」

 礼儀正しく頭を下げる信繁に、もう少し甘えてもいいのになと思った。子供の頃は、甘えっ子だったのに、いつのまにこんなか風になったのか。兄としては、寂しくなる。





 ―SIDE 彦十郎―



「信繁様」
 馬の背に麻袋を乗せている最中の信繁に後ろから声をかけると、反応して振り返った。

「なんだ? 彦十郎(兄)に、彦五郎(弟、後の盛胤)」
 信繁に名前を覚えられていてホッとする。父、原虎胤が、武田家譜代の家臣ではないため、早くから躑躅ヶ崎の館に出仕させられていた。


「はる…。えっと…、その袋の中身が気になりまして。教えていただけませんか?」
 晴信から袋の中身を確かめてくるように命じられたのだが、それは、内密にとのことだ。危うく、ばらしてしまうところだった。


「私めにも教えてくださいませ」
 まだあどけない彦五郎のたどたどしい敬語は愛らしかった。


「……。中身は、犬だ」

「犬?」

「今朝、庭で死んでおってな、埋めに行くところだ」

「信繁様が飼っていたのですか?」
 哀しんでるように見えないが、辛そうな表情をしている。


「時々庭先で飯を分けてやってたのだがなぁ」
 残念だとばかりに表情が曇った。

「私どもにもお手伝いさせてくださいませ」
 晴信の命令ばかりでなく、着いていきたいと思った。

「助かる」



        *


「ここに埋めるんですか?」
「あぁ」

 館の北の山の中、いくつかこんもりと雪が積もり小さな山になっているものがあった。彦十郎は不思議に思って、雪を払ってみると、土が見えた。土が小高く盛られていたのだ。
 墓だ…と思った。
 そして、信繁と彦五郎が雪を掘り、土を掘って、犬の死骸を埋めた。また、新たな墓ができた。

 信繁は墓の前で土で汚れた手を合わせ、震わせながら目を閉じた。その顔が人形のように整ってるなと思った。甲斐源氏の血を引くものは美しいが、信繁はことさら際立って見えた。
 たかが犬ごときの死にしては、大げさだと思ったが、噂どおり、優しいお人柄なのだ。


 麓まで下りると、帰るように言われた。しかし、彦十郎は館へ帰るふりしてをして後をつけた。晴信の命令だったからだ。


 信繁がたどり着いた先は、秋山邸だった。
 門の前に立つとすぐ下男が門戸を開けた。
 彦十郎は中に入るわけには行かない。外で待つことにした。冷たい風が吹き抜け、体が震えた。





―SIDE 信繁―



「信繁、待ってたぞ」
 信繁の来訪を知るや、湯を張ったたらいを秋山が、桶は侍女が運んでくる。
 冷えた足をたらいにつけ、秋山が丁寧に洗ってくれた。これには、侍女や下男の仕事だろうと躊躇ってしまうが、献身的な姿に任せてしまう。

 温い手ぬぐいで摩られると、寒さでかじかんだ四肢に感覚が戻ってくる。


「ありがとう、もお、大丈夫だ」
 侍女と秋山に礼を言い、乾いた手ぬぐいで拭いて邸に上がっていく。


「今朝は、何が死んだ?鯉か猫か?」

「いや、犬だ」
 秋山の部屋へ行くと、食事の膳が用意されていた。
 円座に座ると湯気の立つ甘酒を侍女が運んできた。


「駒三郎(信友の幼名)にはいつもすまないと思ってる」
 館での食事は、いつ毒が盛られているかわからないため食せなくなっていた。

「俺はまだ、こんなことしかしてやれぬ。早く元服してお主の助けになりたいと思ってる」
 それは友として、安心させたいという意味だ。

「私より、いずれお屋形となる兄上の助けとなってくれ」
 落ち着いた口調で言うのに、秋山はふと何かを思ったようだが、いつもの小言は返ってこない。
 

「まぁいい。それより食え。腹が減ってるだろ?」
 秋山が膳をすすめてきたので、箸をつかんだ。もとより空腹に耐えかねていたのだ。

食事がすむと炬燵に入ってぬくぬくしていた。満腹になり、眠くもあった。



 まどろみかけた時、若い郎党風の男が障子越しに、
「―若旦那さま、邸の門前で見張ってるらしき者が…、
鼻をたらして震えております」
 その様子があまりにも滑稽だったのだろう、判断に困ってやってきた。

「−私に用なのかな?」
 信繁は炬燵から出た。
「おい、信繁。俺も行く」
 秋山も刀掛けから刀をひっつかんで立ちあがった。



       *


「なんだ、彦十郎ではないか」
 門の外をのぞき見た秋山が小声で漏らす。

「あぁ、私を追ってきたのか」
 犬の死骸を埋めに行く時、声をかけてきたのは、晴信の命令だったのだろう。

「どうする?」
 秋山が顔をあげる。

「寒いのに気の毒な。館に帰るよ」
 そう言って、戸を開け放った。

「まて、今、馬を持ってこさせる」
 秋山が命ずるより早く、走って行った角太郎が、信繁の乗ってきた馬を連れてきた。


「ありがとう。じゃあ、またな」
 門を開けた時、彦十郎は隠れてしまっていた。
 信繁は気づかぬふりで屋敷へと馬を走らせた。





 ―SIDE 彦十郎―



「寒いっ」
 なかなか出てこない信繁を待っている彦十郎は、この寒さに耐えきれず叫んだ。鼻水が止まらぬし、指の感覚も失っていた。

 その時、門戸が開く気配がして、彦十郎は木の陰に身を隠した。


「やった!信繁様が出てきた」
 彦十郎は嬉々とした。

 一緒に出てきた秋山と二人立ち並ぶ姿は絵草子の一場面のようだった。ホォとため息が漏れる。
 後から下男らしき男が馬をひいてきた。
 それにまたがると躑躅が崎の館へ向かって駆けて行った。
 それを見送って自分も行こうとした時だった、


「何、こそこそしてんだ?話を聞こうじゃねぇか」
 腕を掴まれねじあげられる。

「こ、こばざ…」
 感覚が麻痺して痛みを感じなかった。ついでにかじかんで舌も回らない。

「角太郎、おさえてろ」
 下男の方へ投げるように突き飛ばされた。

「お屋形様の小姓だからって容赦しねぇぞ」
 秋山の目は冷ややかだ。本来なら信繁の命を狙う者へ向けるはずの憎しみが、彦十郎に向ったのかもしれない。
 それほど信繁が大事なのだ。
 また、元服前の子供であるからこそ大胆になれた。家臣同士のいさかいは禁じられてる故だ。

「待て、某が見張ってたのは、信繁様だ!」

 秋山がこんなに怒ってるのは、自分の邸を見張られたせいだと思った。

「だから話を聞こうってんだ。俺は信繁に危害を加える奴は斬る」
 鋭く睨みつけ、脅しじゃないとばかりに鯉口を切った。

「それが、話を聞く態度か!?」
 年下の秋山が傲岸な口調で言うのにムッとした。

「ふん、間諜まがいのお主には言われたくないな」
 全く改めないのは、譜代故かと思うと腹が立った。


「晴信様は、信繁様を心配なさっておいでだ。だから、ついていって、犬の墓を造るのを手伝った」
 秋山は動揺した。
 それは、意外だった。もしや、犬の死骸について何か知ってるのかもしれない。
「お主は信繁様と仲が良い。何か話してるのではないか?」
 逆につついてみた。

「知っていても、お主に話すことはない。―こっちも口止めされててな。お主は、信繁のそばにいることができるのだろう?俺にはまだ、その資格がない。―角太郎、もおいい、放してやれ」
 苛立ちが感じられた。
 躑躅ヶ崎の館に出仕してるのは人質の意味もある彦十郎だが、父が裏切るわけないので、堂々としてられる。信繁のことだって、自分から近づかないにしろ、館で見かけることは多かった。信虎は長男の晴信より、次男の信繁を可愛がっていた。家督を信繁にとまでいうほどだ。家臣の間では、晴信派と信繁派に分かれていた。
 彦十郎にとって信繁は、聡明で慈悲深く、そして、人の目を惹きつけるものがあると思う。


「駒三郎のいうことならば、晴信様も信用なさるだろ、一緒に来ないか?」

「いや、それもだめだ。信繁と約束した。―ほら、お主は仕事があるのだろ?さっさと行け」

 急かされ、弟が館にいることを思い出した。信繁のことだ、脅しはしないだろうが問い詰められるかもしれない。

「お主は信繁様の何なのだ?やけに馴れ馴れしい」
 主君筋なのにだ。

「いいだろ別に」
 それにも答えない。

 しかたない、彦十郎は躑躅ヶ崎の館へ帰ることにした。




          *


 館に帰ると、厩の前で信繁と孫六が向かい合って話していて、孫六の手から、信繁へ紙切れが渡された。
 心配そうな表情の孫六の頭を撫でている。何を話しているかは聞こえなかった。



 信繁が戻ってきてることを確認したため、今度は弟のことが気になった。

 小姓の詰め所と学問所を覗いて見たが、いなかった。


「―彦十郎、戻ったのなら報告に来い、信繁が戻ったのに、お主がいないんで案じておったのだぞ」
「も、申し訳ございませぬ、晴信様」
 廊下を行ったり来たりしていた彦十郎は、顔を真っ赤にした。どんな些細なことでも主の命令を優先させるようにと、父に教えられてきた。

「部屋で話を聞くから来い」
「は、はい」
 弟のことはもちろん心配だった。だが、府中で危害を加えられることはないだろう。




 ―SIDE 信繁―



「信繁兄上」
 馬をつなぎに行くと孫六(のちの信廉)が声をかけてきた。

「どうした?」
「はい、これ」
 そう言って、掌に乗せられたのは小さく折りたたまれた紙きれだった。


「……」
 それを読まずに、袖の中に入れた。孫六の心配そうな表情を見て、安心させるように頭をなでた。

 まだ子供だが頼りになる利発な弟に感謝した。孫六がいれば兄は大丈夫だと思える。
 生まれながらに体が弱く病気がちで父から情をかけられない孫六は命の危機はなかった。

「あまり晴信兄者に心配をお掛けになりませぬように。−でも、兄上には駒三郎殿がおられるから大丈夫ですね」
 人懐っこい笑みを浮かべながら、一人で思いつめるなと念を押されてしまう。

「案ずるな。それに駒三郎ばかりじゃない。お主もこうやって助けてくれるではないか」
 すると、孫六は照れ臭そうにした。
「あまり役に立ちませんけどね。―いつでも私の命をお使いください」
「孫六、それは……」
 母上が悲しむだとか、言いたいことはあったが、孫六も真剣に役に立ちたいと思ってるようだった。


「―ところで、信基兄上が風邪を召したそうです。お見舞いに行きましょう?」
「そうなのか?お前はよくまわりのことを知ってるな」
 孫六は頻繁に異母弟の所へ出入りしていた。

「優秀な兄が二人もいると暇なんですよ。信基兄上もね……」
 何か、思わせぶりな言い方だった。



        *



 信基は母親の実家である内藤邸で養育されていた。

「信基、風邪だと聞いたが、具合はどうだ?」
 見舞に持ってきた干し柿を水差しの横に置いた。

「信繁兄者、わざわざ申し訳ありませぬ。外は雪でお寒いですのに」
 生来浅黒い肌をしているため、病気といわれてもあまり悪いようには見えなかった。熱のせいか、目だけ潤んでいた。


「孫六もよう来てくれた。―伝染ったら、お方様や父上に私が責められるな」
 苦しげに笑みを作った。
「大丈夫ですよ。兄弟の熱は伝染った事はないんです。―館の方でも心配なさってる者がおるようなので、早う良くなってくだされ」
 そういう孫六を信繁は訝った。父が心配するはずない…。誰か、館で密かに信基を想ってる者でもいるのか。


 信基は、容貌も平凡で、控えめ、武も文も特出したものがないため目立たない。体も孫六と同じようにあまり丈夫ではなかった。だが、孫六はいい。正妻の子と側室の子では家臣の態度は違ってしまう。

「信基兄上にあまり無理をさせてはいけませんね。来て早々ですがお暇しましょう」
 孫六が信繁をついた。
 信基の顔色が少し青白くなったような気がした。

「そうだな。―食欲がなくとも精がつくものを食べるのだぞ」
 そう言って、立ち上がると―
「信繁兄者」
 呼び止められ、振り返る。
「父上は信繁兄者に家督を譲ると申してることで晴信兄者に嫉妬されておりませぬか?―晴信兄者派の家臣たちにも邪魔扱いされてそうで心配です」

「……」

「晴信兄者はそんな愚かではありませぬ。信基兄上は心配なさらずに」
 答えぬ信繁の代わりに孫六が、にこっと誰もが愛しくなる笑みを浮かべた。

  

 
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