戦国時代2
□たけだ家・斬る
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−後で思えば、その日は運命の日だったのかもしれない−
その日、躑躅ヶ崎の館の信繁の部屋へ夕餉を運んできた雑仕女はいつもと様子が違っていた。
茶を注ぎ、早々と去っていく後姿を見送ると、碗の汁を一口含んだ。かすかだが、嫌な味がして、すぐに吐き出した。
「−おーい、信繁ぇー」
庭から聴きなれた声が聞こえ、スクッと立ち上がった。
「なんだ?駒三郎(秋山信友の幼名)、もう日が暮れたぞ」
廊下へ下りると、しゃがみこんで駒三郎と目の高さを合わせる。
月の光が明るくて、彼の精悍な顔がよくみえた。
「夕飯の途中だったのか。悪かった」
詫びるのに、いや…と、曖昧に返した。
「それで?」
「“それで”じゃねぇだろ。大人たちの緊迫した空気をわかってないのか?信虎公を甲斐から追い出して…。当事者は、晴信公だけじゃねぇ。お前だって…、信虎公は、お前に家督を譲るって言ってたじゃないか!?」
駒三郎は興奮気味だ。
晴信が君主に相応しいか、家臣達が目を光らせている。少しでも落ち度があれば次と取り替えるだけだ。
「そんなこと…。心配するな。お屋形になれるのは兄上だけだ。もし、内乱になるというなら、私は腹を切るまで」
信繁は静かに瞼を落とした。
「のぶ…しげ…?」
冗談じゃない。その瞳の奥にある決意に、駒三郎は悪寒がした。
「無駄死にはしないぞ。私が死んだら、お屋形様が悲しむ」
信繁の言う「お屋形」が、兄の晴信公のことだとわかる。
「お主はどうする?」
いずれは元服してお屋形様に仕える身だ。
「俺は、お前の友だ。だから、俺もお前が死んだら哀しいぞ」
切なげな表情になる。
駒三郎とて、家督を継げる者が二人いたらどうなるかぐらい容易に想像がついたから、こんな時刻にここへ来たのだろう。
「だったら、少しばかり協力してくれないか?」
半刻程が経ち、先ほどの雑仕女が小柄な男を伴い、信繁の部屋に近づいてきた。
部屋の中は暗かったが、月明かりで、膳のすぐ傍に倒れている者が見え、雑仕女は悲鳴を上げた。
そして、「信繁様」と叫ぶように連呼し、傍らによって行った。
男は廊下に立ちつくし、なんともいえぬ表情をしていた。
その背中に刀の柄が当てられた。
「!?」
「誰の手のものだ?」
自分でも驚くぐらい冷ややかな声だった。だが、男はもっと驚いたろう、目の前で屍になったと思った者が、自分の背後にいるのだ。
「ヒッ…!」
部屋の中で死んだふりをしていた駒三郎が起き上がり、女を羽交い絞めにした。
「言え」
信繁は急かした。
「わ、私が独断で、信繁様は邪魔だと…ギャ…!」
信繁が居あいぬきにした刀で男を斬り、断末魔の悲鳴が上がった。
「あ…ああ…」
女も顔を歪め信繁を見上げた。
そして、男の血で汚れた刀を突きつける。
「ヒッ…」
「待て、女は殺すな!」
駒三郎が叫んだ。
「−信繁兄上ぇ!一体何事…!?」
孫六(信廉の幼名)が駆けてきて、初めに目がついたのは背中を斬られた男の死体。そして、血刀を手に、返り血を浴びた信繁の姿だった。
「−この男、板垣殿の所に来る廻り薬師?」
孫六が男の顔を見て言う。
「板垣…」
信繁は、弟の人の顔を覚える能力に長けているのを知っていた。だから、間違いないと思った。自分を殺そうとしたのは、板垣信方だと。
ギリッと下唇をかみ締めた。
「落ち着けって、命を狙われて起こるのも無理ねぇが、なんともなかったんだから」
今までにない怒りの気がめらめらと燃え上がっている信繁を抑える。
「兄上、血は早めに落とさないと染みになっちゃうし、刀も錆びちゃうよ」
なんとか、刀から手を離させようとする。
「私が怒っているのは、私の命が狙われたためじゃない」
昼間、死ぬ覚悟をしたばかりだ
。兄に止められて、なら、兄のために生きようと思った。兄の責を一緒に背負っていこうと決意した。
それなのに−。
「ちょっと出てくる。後始末は頼んだぞ」
クルリと向きを変えた。
「なっ…!の、信繁ぇ、待て、板垣殿を斬るつもりか!?」
止めるのも聴かず、骸を越えていってしまった。
「しまったな。私が余計なことを言ったから」
孫六は女を助けるために男の素性を言ったのだが、逆効果になったと思った。
「いや…、どっちにせよ、女の口から割れてたさ。さぁて、どうすっかなぁ」
血の臭いがする部屋を見渡して力無くため息をついた。
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