戦国時代
□武田家−1545−
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庭の池のそばにしゃがみこむ武田信廉は元気がない様で、飯富源四郎は、後ろから声をかけた。
「どうしたんですか?信廉殿」
おもむろに振り向く信廉は、自分の姿を見るとほんのり笑った。
「源四郎殿…。弟に背を抜かされた」
「……?どの弟君ですか?」
源四郎は小首をかしげた。信廉の下には、知っている中でも、四人いた。
「信竜でござる。それから、一条の家に早くに養子に出され、不憫に思ってあんなにかわいがっていたのに、元服してからは、お屋形様を実の父のような慕いよう」
と、嘆いていた。お屋形様の同母弟であるのに、きどった態度はしない。
「まるで幼かった童が、母から離れ、父の後を追うようになったような嘆き方ですね」
(ちょっと、かわいいかも)
そんな風に思ってしまった自分に驚いた。
(年上の、しかもお屋形様の弟に無礼な)
「源四郎殿の母上はそうであったのか?」
「へ?あ、−そう…かもしれません。俺の場合、物心ついたときには母と二人暮らしでしたから、時折尋ねてくる兄が、父代わりでした。出仕するとき、母は、嬉しいような寂しいようなそんな表情をしてました」
「虎昌殿とは、親子ほど歳が離れておるのではござらぬか?」
「はい、二十五ほど。わかってらっしゃると思いますが、腹違いなので、兄と俺の母の方が離れていないぐらいです。なのに、俺たちの暮らしぶりをいつも気にかけておいでのようでした」
来るときは決まって、薪や米を持ってきた。時には、刀や馬なども。
「兄は弟が可愛いものだ。腹違いだろうと関係ござらん」
信廉と信竜とて、異母兄弟だ。
と、その時、信廉が、急に抱きしめてきた。
「−−!?」
驚いて声も出せなかった。
「源四郎どのは変わらぬな。出仕したばかりの頃は、私の方が小さかったか」
耳元でささやかれる優しげな声。
今では、信廉の方がちょっとばかり大きくなっていた。
「でも、信廉殿のほうが細いです」
軽い気持ちで言ってみた。
「そうだ、弟より細い。同じ血と肉でできているのに何が違うのだろう?」
ちょっとムッとしたようだ。
「骨じゃないですか?」
「骨…か。じゃあ、どうしようもないな」
離れて、袖をまくった腕をしげしげと見る。
「俺も背が低いこと気にしてるんですよ?」
胴の長さ五寸などと馬鹿にされているのだ。
だが、信廉が言うのには悪い気がしない。
「それはすまぬ。−確かに源四郎殿の方が体格はいいぞ」
源四郎は、朗らかな笑みを浮かべた。
「俺は、貴方に出会って、本気でこの国を守りたいと思いました。兄に言われたからじゃなく、お屋形様を支えたい」
この国が、心底愛しい。
「あぁ、そのために、虎昌殿は手元ではなく、お屋形様の元へ出仕させたのだから。きっと、特別になれる」
お屋形様と同じものを見られる立場になる。
「−貴方の特別にはなれませんか?」
言って、恥ずかしくなった。
「?」
「わ、忘れてください!」
キョトンとされたので、なお顔が熱くなった。
「こういうこと?」
綺麗な顔が近づいてきて、ふわりと唇に何かが触れた。
その何かが、唇だとわかって焦った。
(く、口付けされてる!?)
驚きのあまり、目を見開いた。
本当に間近で見た信廉の顔は綺麗だった。閉じた瞼を長いまつげが縁取り、陶器のような白い肌は、女なら羨むようなきめ細かさだ。
「−のぶ…かど、ど…のぉ…」
啄ばむような口付けは、わずかな時だったのに、永く感じられた。
「違った?」
柔らかな笑みをむけられ、勢いよく頭を横に振った。
「お、俺からもしていいですか?
」
信廉はおもむろに目を閉じた。無言の肯定。源四郎は、肩に手を置き、ゆっくり近づけていった。
そして、再び触れた唇は、柔らかくて温かかった。
人形みたいな整った顔をしているのに、その下は、確かに血の通った人間だった。いつの間にか背中を抱きしめていた手は、汗ばんで、自分でも熱く感じた。
「ん…、ンッ…」
息苦しそうに、眉根をよせるのに、ようやく解放した。
「ハァ…、はっ…あ…」
「すみません…」
源四郎は頭を下げる。
(考えてみたら、お屋形様の弟だ)
「自分を卑下することなどないよ。貴方は昇ってこれる。お屋形様の隣に並べるはずだ」
まだ小姓で、一部隊も持たぬ源四郎が、同格になれると。
「私はまだ、お屋形様のにも兄上(信繁)にも届かぬ」
鳴呼−
(驕らぬ貴方だからこそ惹かれた)
人形のように美しいだけなら惚れなかった。
(俺は、貴方がいるこの国を護る…)