上杉家
□闇のかざし
1ページ/1ページ
ふきのとうを見つけただの、福寿草が咲いただのと決まって主は、義理の兄の景虎に教えていたー。
「景勝様は何故、あんなにも景虎様をかまうのですか?」
景虎がしたたかな性格だと見抜いている樋口与六は、主に忠告しているのだが、ききいれてもらえない。
「ん…?それは、泣いていたから」
「え?」
子供のようないい方に、聞き返してしまった。
「越後に来たばかりの頃、雪が降る中、海を見て泣いていたんだ。綺麗だったな。あの時、私は恋に堕ちたんだと思う」
さらりととんでもない事を言う。
未だ奥方を迎えないのは、自他共に認める奥手だからという理由以外にもあったようだ。景虎相手には気さくないのに、他のものには無口だ。
「私が一生懸命話しかけても、兄上は微笑むだけで、余所事を考えてるようなんだ。きっと故郷の事を思ってるんだろうね」
ため息をついた。
与六は景勝が景虎に近寄るのをよしとは思っていない。
純真な景勝を弄んでいるのが明らかだからだ。
(そうだ、私には小憎らしさを見せるのに)
与六には景虎という人間がわからないでいた。誰にでもいい顔をすると思いきや、時には侮辱したような表情を見せる。
北条家の人質なのだ、誰にでも愛想よくしなくてはいけないはずなのに…。
(もしや、景虎様は、自分の駒となる人間とそうでない人間とで分けている?―否、上杉家を二分しようとしてるのではないか?内乱を起こさせ、国力が低下したところを北条家に攻めさせる)
自分が想像した事にぞっとした。
「与六は、兄上の事、かわいそうだとは思わぬか?家族とはなれ、たった一人で敵地にいるのを」
北条との同盟はたった二年で破棄された。
「貴方様が景虎様に同情なさる気持ちはわかりました」
与六は嘘でもそう答えた。自分の考えをいったところで、主に聞き入れてもらえるはずもない。
*
景虎はこの頃よく柿崎晴家と一緒にいた。
謙信の重臣の柿崎景家の子で、北条の同盟の証として人質にいっていたのが返されたのだ。
相模の話でもしてるのだろうか、晴家と話している時の景虎は、誰にでも見せる穏やかな表情に瑞々しさもあった。
「嫉妬しておるのか?」
ふと、後ろから声をかけられ、振り向いた。
「直江殿…」
直江信綱の顔があった。
「何をおっしゃられてるのかわかりかねます」
与六はムッとした。
「そうか?お主は景虎様をかまいすぎてる気がするがな。それに、隙がありすぎだ」
信綱は笑って見せた。
「そんなこと…!?」
ないと否定しようとして言葉に詰まった。
「おや?お主がむきになるなど珍しい。そんなに景虎様が好きか?」
「お戯れを」
苦笑を浮かべた。
(私が景虎様を好きなど、酔狂だ。景勝様と景虎様の間で家督争いが起こったとしたら、私は間違いなく景虎様を廃すだろうに)
関わらぬ方がいいと思った。
しかし…
(あの方は一人では寂しいのだ)
本当は心から甘えたがってる。
*
景虎の邸には海を模した箱庭があった。
砂浜に池、周りは緑色の苔をはやしていた。
濡れ縁に座り、庭を眺めている景虎に、
「兄上、どおせなら、池の水も淡水でなく海水にすればよろしいのに」
と、海を好きな景虎を知っていて景勝が声をかけた。
「いえ、それでは、篭城戦になったとき、皆が飲み水に困ってしまいます」
景虎は真剣な表情だった。
「でも、池は他にもありまする」
「駄目です」
断固拒否する景虎が気になった。まるで篭城戦を経験したような強さがあった。
(戦など経験してないだろうに…)
相模にいるときはずっと寺にはいっていたときいた。
「景勝様、景虎様のおっしゃる通りです。無茶をいいなさいますな」
「与六…、お主まで…。ただ、兄上が喜ぶと思っただけです」
そう、拗ねたように答える景勝も、景虎が心の底からは好意的でないとわかってるのかもしれない。
「―珍しいな。与六が私と意見をあわすなどと」
心底驚いたような表情をする。これが二人っきりなら嘲笑していたに違いない。
「貴方の意見が正しいと思ったまでです」
感情を読まれぬよう、静かに答えた。
「しかし、景勝殿のせっかくのご好意、嬉しく思いまする」
景虎が笑みを浮かべると、しゅんっとなっていた景勝がパッと顔をあげた。
正直、景虎は美しい。しかし、その存在は危ういのだ。まるで、谷間に張られた綱の上にいるように。
(いや、違うな)
その落ちるか落ちないかのぎりぎりの所で、自分自身すらも傍観しているのだ。
「兄上が望むものならなんでも用意いたしますよ!」
何でもいってくれと眼を輝かせた。
「なら、与六が欲しいといったら?」
ふわりと言った言葉に意味を理解するのにしばし時間がかかった。
(馬鹿な…!そんなの景勝様とて承知するはずない)
「あにうえ…、与六は、口うるさいし、生真面目で融通がきかぬし、何より足がくさい故、兄上が欲しがる理由がわかりませぬ」
「は?」
(なっ…!?いや、これは、景勝様が私を渡したくないというあらわれだ)
与六は自身を納得させた。
「そう…。足が臭いのはやだな。では、他のモノにしよう」
穏やかな表情で酒を所望した。
「初雪が降ったら、一緒に雪見酒をいたしましょう?この場所で。池に落ちる雪も美しいですよ」
そう、景虎に誘われれば、否と言えるはずもない。
「私なんかでよろしければ!」
嬉々として答えた。
*
「恐るるは、弱き証拠。私はお主が恐ろしい」
与六は戯れでも景虎が自分を欲しいと言った理由が知りたくなった。
「私は、貴殿が恐ろしい…っ」
唇を噛み締め、拳を握りしめた。
「弱いな…」
掴めとばかりに谷間の綱の上から手を差し出される。
「貴殿は何度、絶望を味わった!?」
振り絞るように叫んだ。
「私は、景勝殿のように強くない故」
絶望は景勝も味わった。それを知っても今更変わらない。それか、これから起こりうる絶望に堪えられないという意味か。
「景虎様、私は、景勝様だけです」
手を取ってはいけないのだ。
(貴殿を殺さねばならぬ)
それから目をそらしてはいけない。情が移ればお互いが傷つく。だから本心を見せない。
「訂正する。やはりお主は弱くない」
感情の読めぬ流れるような口調。
「貴殿こそ…っ」
何故か、必死になる。
『海に落ちる雪は、積もる事なく消えるのです。それが美しくていつまでも見ていたくなりました』
零しても零しても、滲んでいく涙のようで。
『私がお側におります』
そう抱きしめる景勝は、濁りのない瞳をしていた。
終
朱華(はねず)が何の本を読んでるかわかってしまいますね。