上杉家
□冬は永いか
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宿直していた樋口与六は、ある部屋の前で足を止めた。
中から聞こえるのは、衣擦れの音と―
「あぁぁー…、んん…はっ…」
喘ぎ声が闇夜を裂く。
風で揺れる手燭の火が消えぬように手をかざした。
足音を立てぬようにその部屋から離れていった。
一刻ほどして元の場所に戻ってくると、あの部屋の前から若い男が出てきた。
武将とは言いがたい華奢な体つき、濡れたような黒い髪、肌は雪国育ちでもないのに白い。筋の通った鼻と、形のよい艶やかな唇。漂うのは情交の後のしっとりしたなんともいえぬ色香。同じ男であるのにドキッとしてしまう。
「景勝様に見せて差し上げたいですな」
景勝はこの男を兄と慕っている。
牽制と嫉妬を含み、蔑んで言った言葉に、男は唇の端を上げた。
「下げ渡されたのが気に食わぬのか?」
謙信公付の小姓だった与六は、その才を見込まれ、景勝付となった。その時、謙信公の寵愛を受けていたのは与六だった。それが、北条と同盟のため越後へ人質としてやってきた三郎が美童だったため移ってしまったのだ。謙信公は自分の名だった「景虎」を名乗らせ、姪を嫁がせて上杉一門として受け入れた。
「貴殿はご自身も含め、人を人と思わぬ所があります」
「馬鹿らしい。人でなければなんだというのだ。何も鳥や兎のように取って食ったりなどせぬぞ」
「純真な景勝様にまでそのようなことおっしゃられないで下さい。あの方は貴殿を心から慕っておいでです。傷つけたくないのです」
と、その時、景虎の目から涙がこぼれた。隠しもせずただ静かに。
いきなりのことにうろたえてしまう。
「お主に私の気持ちなどわからぬだろう…」
景虎はふらっと歩き出した。
*
父に名前を呼ばれたことのない景虎が、自身を見てくれる、名を呼んでくれる存在がどんなに嬉しいか。それだけですべてを差し出してしまえる。
物心つくかつなぬかのうちに母(北条氏康の側室)に死なれ。寺へ預けられた。屋敷に呼ばれたのは、武田との同盟のため、人質としていく時だった。側室の子はそんな捨て駒になる運命が関の山だ。武田との同盟が崩れ、国に戻らされると、再び寺へ入った。早雲の四男、幻庵の跡取りにと望まれたことがあったが、上杉との同盟が決まると、今度は越後へとやられた。
周りに流されるだけの人生で、与六の「人」という意味など解せるわけない。
(わかりはしないのだ)
ここへきて、父と弟という家族ができた。血の繋がった兄も弟も大勢いたが、どれも家族というほど接することなく、自分を利用するだけの父や兄など他人同然だった。
(それもかりそめだろうがな)
いつ捨てられるか、もうそんなのどうでもよくなっていた。
「兄上!こんな遅くに出歩いて、風邪をひいてしまわれますぞ!!」
いつの間にか自室近くまで来ていた景虎は、駆け寄ってきた景勝に手を掴まれた。
「泣いておられるのですか?何故?」
心配そうな悲しそうな顔をされた。
そして、自分の着ていた綿入れを肩にかけてきた。
景勝の温もりそのままのそれは、冷えた体には熱く感じられた。
「どこか痛いのですか?」
景虎は首を横に振る。
「心配しないで下さい」
景勝の優しさをわずらわしいと思ってしまうが、不快さを感じさせぬ仮面をかぶって、微笑んだ。
(自分とは違うのだ)
人の心などわかるはずもない。
けれど、この苦しみをどうやって堪えればいいのか。
「兄上は人形のようです。綺麗で、そんな風に微笑まれると、抱きしめたくなります」
景虎は驚いた。あんな冷たい笑みをそんな風に取るのかと。
「し、失礼を…!某に抱きしめられたら不愉快ですよね」
景虎の表情をそう取った景勝は慌てて謝る。
「いいですよ」
「え?」
キョトンとした顔を上げる。
「貴方なら抱きしめても。兄弟でしょう?」
無下に払うことなく微笑んだ。
「////」
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