足利家の兄弟
□楽園願望
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屋敷の入り口で女の叫ぶ声が響いていた。
兄、足利高氏の声も時折混じった。
何事かと遠くから覗いてみると、童子を差し出して、女は必死に何かを訴えているようだった。
−−−−−
「具合はいかがですかな?」
佐々木高氏が褥に寝ている足利直義に声をかけた。
「大分楽になりました。疲れがたまっていただけでしょうから」
直義は佐々木の姿を見ると、体を起こした。
「お顔の色がまだよろしくありませぬな。薬湯を飲んで、もうしばらくお休みになられたほうがよろしいでしょう」
穏やかな表情で薬湯の入った湯飲みを差し出すのに合わせて、直義は手を伸ばした。しかし、それは手渡されず、代わりに手首をつかまれ引き寄せられる。
「!!」
顎を掴み口移しで薬湯を与えられる。
「−ゴ、ゴホッ、ゲホッ、−何を…?」
苦しげにむせるのを佐々木は面白そうに見つめていた。
「私を一番警戒なさっておるのはお主のはず。私に付け入る隙を見せるなぞ、いくら疲れているせいでもいけませぬな」
手首を掴んで押し倒す。
熱い視線で見下ろされ、目をそらせなくなった。
「あ…」
直義は唾を飲み下した。
「あまり頑なになりませぬな。ひどいことなどいたしませぬ」
おもむろに顔を近づけ、唇を重ねる。
「んんぅ…」
とっさに目を閉じると、手首を掴んでいた手が放され、首筋を通って衿の合わせから忍び込んできた。
「あ、や…」
熱い手のひらが胸をまさぐるのに、ある記憶が蘇る。
「やだ…!いやだ!放して−−−……」
恐怖で引きつった表情で手を振り回し暴れる。
「直義殿?」
尋常ではない様子にさすがの佐々木も動揺する。
「ああああ−…!!」
呼び起こされるのは痛みと恐怖と絶望と。
頭の片隅に残る兄に陵辱された記憶−。
「直義殿、直義殿…」
血の気の引いた頬を叩く。小刻みに震える手を握るとひどく冷たかった。
「直義殿?」
「あ…」
直義は目を閉じる。一筋の涙がつぅと落ちていった。
「私に触られるのがそんなにいやですか?」
いつもと代わらぬ穏やかな笑みを浮かべ間近で顔を見つめた。
「どいてください。取り乱してしまって申し訳ありません」
ふいっと、視線を逸らし、起き上がろうとする。それを肩を掴んで押しとめ、
「私が怖いのですかな?それとも?」
肩が小さく震えた。
「まあ、今夜は我が家に泊まっていきなされ。心配なさらずとも、もう何もいたさぬ」
直義も佐々木の人柄を理解している。こんな時は、本当に何もしない。
『伯父上、私は伯父上だけが頼りです。手習いも武芸の稽古もいたしますから大人になったら側においてください』
あの時、屋敷に引き取るわけにはいかなかった兄の子を東勝寺に預けた。
濁りのない瞳でみつめてくる幼子を不憫に思いながらもイラついた。
(私だって完璧なわけじゃない。だから、頼ってくるな)
父に捨てられた者と、兄に辱められた者のどちらがマシなのか。
(私は誰に縋ったらいい?)
『−直義殿、具合がお悪そうですな。私の屋敷においでになりませぬか?』
木に凭れ掛かっていた直義に気づいた佐々木が手を差し伸べた。
(私は一番取ってはいけない手を選んでしまったのだろうか?)
けれど、名前を聞いたときから惹かれてしまっていた−。