足利家の兄弟
□うたかた
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昨夜の雨で地面がぬかっていた。
(あーあ、こんな日に出かけるんじゃなかったな。袴の裾が汚れてしまった)
直義はぼやきながら歩いていた。
ズッ…
「あ、と…」
(こけるー)
そう思って反射的に目を閉じるが地面に叩きつけられる感触がなかった。そればかりか背中に温かなものが当たっていた。
「滑りやすくなっているゆえ、お気をつけなされ」
背後から声がし、おもむろに目を開ける。
肩越しに振り返ると、武家風の男が立っていた。
(助けてくれたんだ)
「かたじけない。私は足利直義。貴殿は?」
「佐々木高氏と申す」
「佐々木、高氏…?」
(兄者と同じ名前だ)
「お主は、足利高氏殿の御舎弟の?なるほど、噂にたがわず美しい」
佐々木はじろじろと直義の顔を見た。
「はあ?」
「高氏殿が羨ましい。このようなものを毎日愛でられて」
「あの…?」
危機を感じて逃げ腰になる。
「今度、私の屋敷に遊びに来てくださらぬか?源氏の嫡流のあなた方とはゆっくり話がしてみたい」
「……」
直義の先祖は北条氏から《足利》を守るために自害した。いつか、北条に代わって天下をとれと置き文を残して−。
*
「兄者、佐々木高氏殿って御存知ですか?」
邸に帰った直義が兄に尋ねる。
「佐々木道誉殿のことか?近江守護で執権殿のお気に入りの」
高氏は冷たい表情で言うが、直義は気づかぬふりをした。
「ふーん。昼間、私がこけそうになったのを助けていただきました」
「油断するなよ」
ボソリと呟かれた。
「え?」
高氏の言葉は聞こえたが意味がわからなかった。
―由比ガ浜―
直義は一人、砂浜に座って、波を見るともなく見ていた。
「また会いましたな」
背後から声がしたが、直義は振り返らない。誰であるかわかっていた。
「私の後をつけてきたのでしょう?偶然とかにしないでください」
嫌味を言う。
「しかし、お主を見つけたのは本当に偶然。―高氏殿と違って人を信用しませんな」
疑ったのをすぐに悟られる。
(兄者だって…)
人を簡単に信用しない。常に人を惹きつけておきながら心を許してる者など誰一人としていないのだ。すべて信用してるふりだ。
「何か御用ですか?」
兄よりも素直なのだろう、信用ならなければ礼儀も何もない。
「お主に興味がある」
扇を広げ、口元を覆う。微笑んだのが気配でわかった。
ドキッと心臓が高鳴る。
「お主のこともっと知りたい」
「……」
吸い寄せられるように二人口付けた。
「潮の味がいたす」
ぺろりと唇を舐めた。
「////」
直義は顔を上気させ、佐々木を突き飛ばしていた。
(私は…)
今、何をした?
胸の鼓動がいつもよりせわしくなる。
「突き飛ばすなんてひどいお人だ」
「私、帰ります!」
すくっと立ち上がる。
砂浜を駆けていく後姿を見送った佐々木は微笑んでいた。
(あったばかりの…しかも、男の人に私は…)
直義は手の甲で唇を拭った。
(だけど、あの人、私が尾行に気づいてたのを知ってたんだな)
あの時、驚きもしなかった。
(何なんだろう)
優雅に振舞っているが、まるで隙がない。
(確かに油断ならない人だ。兄者はそういう意味で言ったんじゃないんだろうけど)
数日後、再び佐々木が現れた。
「お主は兄者とおられるか一人でいるかのどちらかですな」
「ほっといてください」
フイッと視線を逸らす。
「お主の心を私に下さらぬか?」
「え?」
腕を引かれ、唇を重ねられた。
「嫌だ!放してください」
腕を振り回し、佐々木から逃れようとする。
「どうして?この前は嫌がらなかったのに。それに今回だって、本当は嫌じゃないでしょう?」
「……」
直義は頬を染め拳を握った。
「……どうせ、貴殿はからかってるだけなのでしょう?私には単なる退屈しのぎにしか思えません」
叫び声に近かった。
「ふーん。そう思われていたとは心外ですな。私は真剣にお主を口説いてるというのに」
そうは言っても冗談にしか聞こえない。
「やめてください。私は貴殿など好きになりません」
顎を取って正面を向かせられる。
「私は噂に聞いたお主を見たかった」
「天女が蚤を振るったような細工品っていう奴ですか?」
兄から聞いたことがある。
「そうそれ。誠左様であったな。北条の血を引く者は美しいが、お主は格別。心惹かれぬわけがない」
「人望なら兄者の方があります」
「そのようですな。けれど、私は、お主の顔の方が好みだが」
「顔なんかで選ばないでください」
「いやいや、顔は最大の武器ですぞ。なんたって、評価するならまず顔でしょう」
「私は顔で判断しません」
佐々木を否定すると同時に彼に惹かれそうな自分を押さえつける。
この者は、兄よりも自分に関心ある。ずっと年が近い次男として自分を抑えてきた直義だ。皆、明るく話しやすい高氏の方へ行ってしまう。
「でも、名前には興味をお持ちになった。違いますかな?」
佐々木はニヤッと笑う。
「////」
そう、兄と同じ名前に。
「私と兄者は源氏の嫡流だ。執権殿に寵愛を受ける貴殿を好きになれません」
腕を掴まれ、引き寄せられる。
「権力者には従っておくほうがよい。お主や高氏殿には理解できるはず」
佐々木は直義の顔を覗き込む。
足利もそうやって高氏までつないできたのだ。
「わたしは……」
否定の言葉を佐々木の唇に奪われた。
終