☆Text-空白の石版-
□第二十二章 紅涙
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【SIDE:美咲】
今日は客が来る、と。
今朝大蛇は上機嫌で俺に言った。
気のない返事をして彼の方へ顔を向ければ、刹那視界に入る大蛇の嗜虐的な表情。
妙な違和感を感じはしたが、大してそれに気を留めもしなかった。
どうせ監禁されてる俺には関係ない話だろうと思っていたんだ―――
「―――猿比古....!?」
俺は開いた扉の先に佇む人物に目を見開いた。
瞬間、指先が強ばる。
目の前に猿比古がいて、そして切なげに俺を見つめていた。
(どうして、猿が....?)
俺は唖然として開いた口を震わせる。
(そう言えば、今日は....大蛇が)
身体が熱を持っていった。
驚きからか、息が上手く繰れない。
(客が、来るって....言ってたな....)
客って、猿比古の事だったのか....?
俺は突然の状況にただ呆然とその状況を見つめた。
猿比古が、ここにいる。
「美咲....」
交わらせた視線の先で、猿比古が小さく俺の名前を呼んだ。
その声に、胸の内から感情が溢れ出す。
目頭にうっすら熱い膜が浮かんだ。
俺は慌ててそれを袖口で拭う。
「さる、ひこ」
大蛇に監禁されて何日目か。
ここの生活にも大分慣れてきた気がしていた所だ。
....まぁ、慣れたらダメなんだろうけどよ。
大蛇は大抵俺に優しかった。
部屋には俺の大事な人達は一人も居なかったけれど....その分大蛇が埋め合わせに沢山のものを与えてくれて。
無理矢理犯したり、脅して俺を閉じこめたりする癖に、大蛇は俺を大事にしてくれた。
それに、俺のことを"好き"だと。
そう言ってくれたから。
監禁されているのは悔しかったけれど、耐えられると思っていた。
それなのに....
「猿比古っ!!」
猿比古を目の前にして、俺の中の何かが壊れていく。
気丈な柱の様なものが、内側から罅が入ったように脆く崩れていった。
今まで心の奥に隠していた寂しさが、胸の内に溢れる。
「何で、ここに....猿比古が?」
俺はばっと立ち上がると猿比古の傍まで駆け寄った。
ここが大蛇の部屋だとか、そんな事は一切忘れていて。
ただそこには自分と猿比古しかいなかった。
「み....さき」
駆け寄った俺を、猿比古が静かに見つめる。
猿比古の唇が瞬間淡く開いて、震えた。
「....」
「....猿比古?」
猿比古は目を細めて、刹那俺から視線を逸らす。
苦しそうな表情で、猿比古は沈黙していた。
(....どうしたんだ?猿の奴....?)
俺は固い猿比古の表情に戸惑う。
俺はそっと猿比古を見上げ、瞳の奥を覗き込んだ。
猿比古は刹那ビクリと腕を痙攣させる。
それから青紫の瞳を、感情を押し殺すように瞼で隠した。
「美咲」
「ん、何だよ猿」
不意に、猿比古が口を開く。
俺は鼓膜を揺らす猿比古の声が嬉しくて、少し弾んだ声で返した。
猿比古の瞳が、チラリと俺の顔を一瞥する。
それから足下へ視線を移した。
「美咲、離れろ」
「へっ?」
ぽつりと呟いた猿比古の言葉が部屋に落とされる。
俺は思わぬ言葉に思わず間抜けな声を漏らした。
「は、離れ....?え、あ....悪ぃ」
「ッ....チッ」
俺は辿々しく言うと、猿比古から一歩距離を取る。
離れろなんて、猿比古に初めて言われた。
(な、何だよ、普段は俺が逃げても追ってくる癖に....)
困惑して猿比古を見つめると、舌打ちが聞こえてくる。
何で此奴、こんなに不機嫌....何だ?
訳が分からない。
そう思って俺は俯いた。
俺がここに監禁されてる間に、何か有ったんだろうか....
(まさか、大蛇に何か....!?)
俺はそこまで思案してハッと顔を上げた。
もしかして、大蛇が俺との約束を破って猿比古に何か―――
「猿比古、お前!!もしかして大蛇に何かされたのか....!?」
「....は」
俺は思わず声を荒げて叫んだ。
大蛇の奴ふざけんな....俺の仲間や猿比古には何もしないと約束したのに。
震えた声で尋ねる俺に、猿比古が暗い瞳を向ける。
「怪我させられたりとか....もしかして何か被害に遭ったりしてんのかよ!?」
俺が叫ぶと、猿比古は瞳を瞬いた。
胸の内に不安と怒りが渦を巻く。
猿比古に手ぇ出してたら、大蛇の奴絶対に....!!
「別に、何もされてないけど....」
「っ、ホント....か」
猿比古はそんな俺に対しボソリと言葉を返した。
猿比古の言葉にほっと俺は胸を撫で下ろす。
(良かった―――)
それからそっと猿比古の顔を見上げ直した。
長い睫毛、白い肌に、整った顔立ち。
青紫の瞳。
昔と変わらない、猿比古の顔。
「美咲」
「ん」
ゆっくりと再び猿比古が俺の名前を呼ぶ。
俺は切なく瞳を細めた。
それからはっとして目を見開く。
「っクソ猿、つーか名前で呼んでんじゃ...っ」
「美咲はさぁ、そうやって俺の心配してる場合なのかよ....?」
不意に、俺の言葉に猿比古の言葉が重ねられた。
「へ....」
俺は不意を付かれて再び言葉を失う。
猿比古は、俯いて言葉を続けた。
猿比古の声色に、僅かな焦燥が滲む。
「美咲、俺の事よりもさぁ....まず自分の状況理解しろよな。大蛇に監禁されんだぞ?あぁ、それとも....案外その生活が気に入っちゃったのか?」
早口で猿比古はそう言うと、くっと短く笑った。
俺は猿比古の鋭利な言葉に、刹那戸惑う。
「さ、猿....?」
何で突然そんな事。
俺は目を見開いて猿比古を見上げる。
猿比古は依然として目を合わせてくれなかった。
「き、気に入ってる訳、ねーだろ....吠舞羅の奴らにも会えねーし」
「は、こんな時でも"吠舞羅"ね....」
俺の言葉に猿比古が低く嘲笑する。
猿比古の口元が、不自然に歪んだ。
ゆらりと猿比古は顔を上げて俺を見下ろす。
感情の希薄な瞳が、俺を覗き込んだ。
「俺はさぁ、そんな美咲が....吠舞羅の事ばっか考えてる美咲が....」
「っ....猿比古....?」
猿比古の瞳が瞬間俺の瞳を深く覗き込む。
青紫の猿比古の瞳に、俺の姿が映り込んだ。
猿比古は刹那口を噤む。
それから俺の頬にそっと手を添えた。
猿比古の唇から、冷たい言葉が繰られる。
「大ッ嫌いだったんだよ、昔からなぁ!!」
「!!」
猿比古の声が、部屋に響き渡った。
俺は猿比古の言葉に、言葉を失って掌を戦慄かせる。
猿比古が、俺の事、嫌い....?
「....っ」
「何だよ美咲ぃ、そんな傷付いた表情して....」
猿比古の冷たい声が、嘲笑うような声が、皮膚を抉る。
胸の奥を、鋭い刃物が深く貫いた。
瞬間、血の様に溢れ出す猿比古の記憶。
(猿比古....)
中学の頃、ずっと一緒にいた。
その後も、ずっと一緒にいるんだと思っていた。
けれど、猿比古はいつの間にか俺の傍から離れていって....
「どうしたの美咲?俺が吠舞羅を止めた時にさ....解ってた筈だろ?」
「っ....」
猿比古が冷笑を浮かべて俺を見下ろした。
(....)
あの日猿比古は、吠舞羅を止めた。
悔しくて、解らなくて、苛立った。
焦燥感から怒りばかりが沸き上がってきて、炎の様な怒りで頭の中が埋め尽くされた。
猿比古が、俺から離れていったと、喪失感から....胸にぽっかり穴が空いた様だった。
「猿比古....」
「.....っチッ」
俺はぽつりと猿比古の名を呼ぶ。
俺の震えた声に、猿比古の舌打ちが解けていった。
猿比古の右手が、きつく握りしめられて震える。
俺は猿比古の言葉を心中で反芻させて俯いた。
再び、胸が痛む。
(猿比古、俺の事、嫌いなら....それならどうして....)
―――どうして、それでもお前は俺に関わって来たんだよ。
胸の内に、鈍い痛みが広がっていく。
自分から離れて行った癖に、俺を見つけては追い回しやがった。
こないだ何か、保健室で"好き"だとか嘯きやがって....!!
馬鹿にしたように笑っても、俺のやること成す事邪魔してきても、それでも猿比古は―――
(本当は、俺の傍にいつも.....っ)
離れていった癖に、本当は誰より一番傍に居たのは....ずっと猿比古だった。
俺の事が嫌いなら、どうしてそんな風に、俺に関わってきたんだよ。
「美咲....っ」
「猿比古!!」
猿比古の弱々しい声が聞こえた。
俺はその言葉に被せるように、キッと猿比古を睨み付けて叫ぶ。
「クソ猿....っ、だったらお前、何で何時も俺の事つけ回してんだよ!!」
「っ....美咲」
「嫌いなら、俺の事なんて放っとけばいいじゃねーか!!」
俺はそう叫んで猿比古を睨め付ける。
猿比古は俺の言葉に、刹那唇を歪ませた。
それから、苦しそうに舌打つ。
「放っておけるなら、そうした」
「っ、なら!!」
「それでもお前はもう―――俺の心の中から、消せなかったんだよ!!」
猿比古のヒステリックな叫び声が、部屋に木霊した。
猿比古は荒い息遣いで呼吸を繰り返すと、俺を睨む。
俺はビクリと身体を硬直させた。
見慣れた筈の猿比古の瞳が、瞬間、酷く怖くなって俺は目を瞬かせる。
「美咲ぃ....中学の頃さぁ、美咲が何時も何て言ってたか覚えてるか....?」
「....っ何だよ」
「"二人"で、世界征服....だよ」
猿比古の声が揺れた。
揺らいだ声が、俺の脳を揺らす。
「それが....どうしたってんだよクソ猿」
俺は静かに声を絞り出した。
猿比古が、ゆらりと言葉を続ける。
「は、世界征服....悪い気はしなかった」
「....」
「世界征服した暁には、何処か誰もいない所に....美咲と俺、二人だけの国を作ろうと思った」
二人だけの国。
猿比古の言葉が、妙に頭に残った。
俺はこくんと唾を嚥下する。
「猿....」
「残酷だよなぁ....散々俺に期待させといて....お前はさぁ。世界征服の途中で諦めやがった」
「え....ッあ!!」
瞬間、猿比古に胸倉を捕まれた。
引き寄せられ、猿比古の顔が直ぐ目の前に広がる。
息が、苦しい。
俺は目を細めて荒い息を吐いた。
間近に迫った猿比古の瞳は、うっすらと赤く色付いていて。
「吠舞羅って世界に魅了されてな、お前は俺の事なんて見向きもしなくなって....!!」
「猿比古....」
「俺との世界征服はさぁ....どうなったんだよ、美咲....っ!!取り残された俺は.....?」
猿比古の瞳が、きゅっと細められる。
そしてその瞬間、雫が猿比古の瞳に浮かんだ。
(猿比古....!!)
苦しそうに、猿比古の顔が歪む。
俺の胸も、ぎゅうと締め付けられた。
「美咲....こんな、こんな事なら、いっそお前に出逢わなければ....―――」
猿比古の唇が震える。
瞳に溢れんばかりの雫が、貯まっていた。
「俺の人生に、お前は....っ」
猿比古の泣きそうな表情。
俺は言葉を失った。
猿比古のこんな悲しそうな顔は初めて見て。
俺は思わず猿比古の頬に手を伸ばす。
胸が締め付けられるように切ない。
それと同時に、目の前の男がとても愛おしく感じられた。
「猿比古」
「....美咲」
俺の掌が、そっと猿比古の頬を撫でる。
その刹那、ぽつりとその掌の上に熱い涙が一滴落ちた。
つっと、俺の手の甲を猿比古の涙が伝う。
「美咲」
猿比古は静かに、その掌を自身の手で包んだ。
俺の掌に指を絡ませ、優しく握りしめる。
「美咲....っ」
猿比古はそっと俺の掌を自身の口元へ運ぶと、静かに口付けた。
俺はその行動にびくりと肩を撓らせる。
頬が熱くなって、恥ずかしさに俺は俯いた。
「美咲」
「っ....猿」
不意に、猿比古に切なく名前を呼ばれる。
俺は顔を上げると、猿比古の瞳と向き合った。
涙に濡れた瞳が、俺を見据えて、切なく細められる。
再び、猿比古の白い肌の上に、涙の筋が走った。
「お前が俺の人生に....必要なかったなんて―――言えるわけねぇ....!!」
バチッ―――!!
「っ!?猿比古ッ!!」
猿比古の言葉の直後、何かが弾けた様な音が聞こえ、猿比古の身体がくらりと倒れる。
俺はその身体を受け止めながら叫んだ。
「伏見猿比古、お前には失望したよ」
俺の悲鳴を掻き消すように、冷たい声が重なる。
倒れた猿比古の後ろから、八岐大蛇が静かに顔を覗かせた。
大蛇の冷たい憎しみの籠もった瞳が猿比古に注がれる。
その手には、スタンガンの様なもの。
「おい、大蛇―――猿に何したっ....んぅ!?」
「....」
俺が大蛇に向かって叫ぼうとすると、大蛇の掌がぐっと俺の口を塞いだ。
言葉を奪われて、俺は必死に大蛇を睨み付ける。
大蛇はそんな俺を鋭く睨み付けた。
「忘れんなよ美咲、伏見猿比古の安全は俺の気分次第だ」
「....っんん!!」
「美咲が聞き分けなくガタガタ抜かすなら、今直ぐに始末してもいい」
「っ....」
大蛇に冷たく言い放たれ、俺は言葉を失う。
俺が何か言ったら、猿比古が....
「そう、いい子だ美咲....今夜はうんと可愛がってやる」
俺はぐっと押し黙って俯いた。
俺の様子に大蛇がそっと俺の唇から掌を外す。
静かに言いながら、大蛇は猿比古の身体をゆっくりと持ち上げた。
「じゃあ、此奴返して来るから....部屋でいい子にしてろよ美咲」
「....っ」
大蛇はそう言うと、猿比古の身体を肩に担ぎながらゆっくりと部屋を後にする。
刹那猿比古の頬を、瞳に貯まっていた涙が伝って、泣いている様に見えた。
「っ猿比古!!」
俺がその光景に思わず叫ぶと、大蛇が冷たく俺を睨む。
その瞳には、ありありと残虐な憎悪が浮かんでいて....
俺は自身の唇に猿比古の命を背負っている事を、改めて思い知らされる。
これ以上、何も言えなかった。
俺は自身の無力に掌をぎゅうと握る。
(っ、猿比古―――)
俺の瞳にも、じわりと熱が滲んだ。
俺は自身の唇をそっと、猿比古がさっき口付けた掌に当てる。
「猿比古....っ」
切なさが、瞳から溢れて頬を伝った。