☆Text-空白の石版-

□第二十一章 ナイフ
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【SIDE:猿比古】


―――美咲はよく、俺を傷付ける。

たった一言で俺を滅茶苦茶に傷付けて。
けれどたった一言で俺を救う。

正直振り回されてるのは解ってるし、それが心底腹立たしい時もある。

けれどそれでいい。
俺は美咲が好きだから。

―――美咲だけは、俺の心の最奥に触れてもいい。




「着いたぞ」

大蛇の声。
俺は声の聞こえた方へ首を傾ける。

「目隠しはまだ取るなよ」
「....」

大蛇は静かに俺に言うと、俺の手を引いてそっと車から俺を降ろした。

視界が布に覆われ、何一つ見えない。
足下がふらつく。

「チッ....」
「後少しだから」

俺が舌打つと、大蛇が俺の手を引きながら小さく笑った。

俺はおぼつかない足取りで、ゆっくりと進む。
大蛇はそんな俺に合わせて、時々立ち止まりながら俺の手を引いた。

無言のままエレベーターに乗り込み、大蛇に導かれるままに、ある部屋へ入る。
そこで漸く大蛇が俺に声を掛けた。

「伏見猿比古」
「....何だよ」
「....取って良いよ、目隠し」

言われ、俺が目隠しに手を伸ばすと、それより早く大蛇の手が目隠しに触れる。
俺の頭の後ろに手を回して、大蛇はそっと目隠しを取り払った。

瞬間、視界が開ける。

目の前には、八岐大蛇の綺麗な顔。
癖のない艶やかな黒髪が、少しだけ瞳に掛かって、射抜くような深紅を隠していた。

そして同時に、何もない白い壁に囲まれただけの部屋が視界に入る。

「....」
「取れたよ」

大蛇は小さく呟くと、にこりと俺に微笑んだ。
その笑顔が、俺の苛立ちを刺激する。

「チッ....」

俺は舌打って視線を逸らした。

どうして此奴は、こんな風に穏やかな顔をしてんだ?
俺はこんなに此奴が憎いのに....

「伏見猿比古」

俺がそう感じて俯くと、不意に大蛇が優しく俺の名前を呼ぶ。

その声には"彼らしい"威圧感は無く、静けさを打つような鋭さも無かった。

「伏見猿比古、俺は少しお前を見直したよ」
「....はァ?」

何をいきなり言い出すのかと思えば、突然脈絡の無い事を言い出す大蛇。

俺は予想外の言葉に訝しげに彼を睨め付けた。
怪訝そうに眉を寄せる俺に、大蛇は静かに微笑む。

「車の中で、お前を連れてて思ったんだよ....此奴、たった一人で敵の車に乗せられて怖くねーの?って」
「....」

大蛇の静かな声が、ゆらりと部屋に広がった。

大蛇はゆっくりと瞳を細める。

「それで色々考えたんだよな。....『伏見猿比古は馬鹿だから状況が全然飲み込めて無い説』とか....『自棄になっちゃった説』....とか」
「チッ....何が言いてぇんだよ」

俺は再び舌打ちして大蛇を睨め付けた。
こんな御託を聞く為に俺はここまで来た訳じゃない。

大蛇は俺が睨め付けるのに軽く笑うと、言葉を続けた。

「....でも違う。伏見猿比古は自分の置かれている状況が解らない程馬鹿でもない。かと言って自暴自棄になってる訳でもない」

大蛇はそこで瞬間俺と視線を交わらせる。
大蛇の深紅の瞳が、静かに俺を見つめた。

「そこで漸く答えが出た。簡単な事だ....伏見猿比古は、美咲の事がそれでも好きでしょうがないんだ」

深紅が静かに燃え上がる。
微動だにしない赤が、俺の内側を覗いた。

(....っ)

刹那―――何か異様な気味悪さを感じて、俺は瞬間息を飲む。

「解ったんだよ、"伏見猿比古は俺と一緒なんだ"って」

大蛇の声が、俺の鼓膜を揺らした。
腹の奥に、嚥下仕切れない棘が沈む。

「っ....テメェ何かと....一緒にすんじゃねぇよ....!!」

俺は漸く小さな声で言葉を吐き出す。

大蛇はにこりと一笑して俺の言葉を受け取った。
そして、静かに言葉を続ける。

「俺は、伏見猿比古、お前に敬意を払う」
「....な」

大蛇はそう言うと、俺を真っ直ぐに見据えた。

瞬間、その真っ直ぐな瞳に俺は戸惑う。

(チッ....何なんだ?此奴は....!?)

俺から美咲を奪って置いて、敬意?

「.....ッ八岐大蛇、さっさと本題を言え!!」

俺は苛立ちから叫んだ。
異様な空気が部屋に満ちる。

何処か、大蛇の掌の上で踊らされている様な気がして、居心地が悪かった。

「....」

俺が叫ぶと、大蛇は刹那口を噤む。
それから柔らかく微笑んだ。

一歩俺に近付いて、静かに口を開く。

「伏見猿比古、俺は....お前の美咲を愛する気持ちに敬意を払う」

大蛇は静かにそう言うと、再び口元に三日月を描いた。
そして、深紅の瞳をそっと細める。

「だから、お前に美咲を自由にする"チャンス"をやるよ」
「!!」

大蛇の言葉に、俺は目を見開いた。

美咲を自由にする....チャンス?

目の前の男は硬直する俺を見て、妖艶に微笑む。
俺は大蛇を見上げた。

(美咲を、自由に―――)

瞬間、ドクンと胸が熱く揺れる。
俺はぎゅうと、上着の裾に触れた。

布越しに感じる、愛しい人のボタンの感触。

「....何を、すればいい?」

俺は呟いた。
大蛇を見上げ、静かに目を細める。

―――美咲

愛しさが込み上げて来て、俺は唇を噛んだ。
美咲を取り戻すためなら、俺は何だってする。

「....伏見猿比古、それじゃあ、今から俺の言う事を一つだけ聞け」
「....」
「それが出来たら、美咲は自由にしてやるよ」

そう言うと、大蛇はそっと俺の唇に手を伸ばす。
そして、ピンと指を伸ばすと、真っ直ぐ俺の唇を指さした。

「....傷付けろ」

大蛇の唇が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

刹那、大蛇の形の良い唇が嗜虐に歪んだ。

「―――な」

俺は小さく声を漏らして、一歩後ずさる。
大蛇はそんな俺を追って一歩俺との距離を詰めた。

蛇の様な瞳で、大蛇は俺を見据える。
先程までの柔和な雰囲気は消え去り、凍えた風の様な鋭い視線が俺を見抜いた。

「お前の口から、美咲に言え。―――お前は美咲を愛していない、と」
「!!」

「そして―――」

大蛇は俺を睨め付けて、それから凍て付いた唇から言葉を紡いだ。

「お前の人生に、美咲は必要なかったと言え」

「.....!!」

大蛇の言葉に....俺の周りに、無機質な空間が広がっていく。
まるで空気や熱が何処かへ逃げてしまったように、世界は質を失ってくすんで行った。

(は―――)

俺は言葉を失って立ち尽くす。

(美咲が、必要なかった―――?)

世界が、思考が真っ白に、霞む。

美咲が、俺の人生に必要なかった?
美咲が?

そんな馬鹿な事が有る訳ない。

....美咲は俺の全てなのに―――

「....ッ」

俺は呆然とする頭で再び大蛇を見据える。

―――傷付けろ

そう言った大蛇の声が、脳内に木霊した。

「....伏見猿比古、もしそれが出来たなら....美咲を自由にしてやるよ」
「....」

大蛇は言葉を失った俺に静かに言い放つ。

「お前自身の言葉で、美咲を傷付ける事が出来たら、な」

大蛇の言葉が鎖の様に俺に絡みついた。

(俺が....美咲を....!?)

思考が霞む。

これは、美咲を自由にする千載一遇のチャンスなんだ。
ほんの少し、嘘を吐けばいいだけ。

(....俺は)

俺は静かに心中で言葉を反芻させた。
苦しい矛盾が、胸を締め付ける。

俺は、美咲を愛していて。
だからこそ、彼を自由にしてやりたい。

けれどその為に、愛する美咲を傷付けなければならない。

(美咲を、自由にする為に....美咲を傷付ける....?)

自分の気持ちを偽り、美咲を傷付ける。

(....ッ馬鹿馬鹿しい。そんなの、ただほんの一瞬の嘘じゃねぇか)

そうだ。
あの時、美咲と二人きりの保健室でも.....俺は嘘を吐いたじゃねーか。

―――もしかして"好き"って....そーゆー意味だと思った?

そう言って、俺は自分自身の気持ちにすら嘘を吐いて....あの時、言えた筈だ。

....美咲との関係を、壊したくなかったから。
美咲に、俺の気持ちを否定されるのが怖かったから。

嘘くらい、今回だって容易に吐ける筈だ。

....けれど―――

「伏見猿比古、どうする?やるか....?」
「....ッ」

今回のこれはあの時とは訳が違う。

自分の気持ちに嘘を吐いて。
そして、この言葉は美咲の一番深い所をきっと抉る。

(けど....それでも....!!)

俺は唇を噛んだ。

「....チッ....さっさと美咲の前に連れてけ」
「....それは、やるって意味でいいのか?」

やっとそう告げると、大蛇は静かに俺を見据えて訪ねる。

「っ....あぁ」

俺は小さく頷いた。
息が苦しい。

瞬間、心臓がジクリと痛んだ。

俺は、今から最大の嘘を吐く。

―――美咲の涙が、瞬間脳裏に浮かんだ。

「はは、頷いてくれると思ったぜ」

俺の選択に、大蛇はぱっと明るい声を出した。

「じゃあ、美咲に会いに行こうか」

大蛇はそう言うと、先導して部屋を出る。
俺はその後を無言のままついて言った。

(美咲....)

逆に、俺がこの条件を呑まなければ、大蛇は何時までも美咲を監禁し続けるだろう。

(....)

俺が、これをすれば....美咲は自由になれる。

苦しい圧迫感が胸を強く締め付けた。

美咲が好きなのに。
ただ、美咲を愛しているだけなのに。

何故俺は、こんな言葉を美咲に突き付けなければいけないんだろう。

「伏見猿比古、ここだよ」
「....!!」

大蛇は一枚の扉の前で立ち止まった。

「自然に、美咲を傷付けろ。何て言えば良いのかは、解ってるよな」
「....」

大蛇は確認するように、そう言って俺を一瞥する。

俺はこくんと緊張を嚥下した。
背筋に、冷たい汗が伝う。

「....じゃあ、行って来いよ....俺は、ここから会話聞いてるからさ」
「おい」

大蛇の掌が、扉のノブに掛かった。
俺はその瞬間、大蛇の言葉を遮る。

「どうした?」

大蛇はそっと目を細めて尋ねた。
俺は小さく、大蛇を睨み付ける。

今更になって、小さな疑念が顔をもたげた。

「必ず、美咲を自由にするって....約束出来んだろうな」
「....あぁ、何だ、そんな事」

俺が大蛇にやっとの思いでそれだけ告げると、大蛇は何でも無いように柔らかく微笑む。

「俺は約束は必ず守るよ―――美咲は絶対に"自由"にする」
「....」

大蛇の言葉に、俺は俯いた。

それから、大蛇の掌の上から、ドアノブに手を掛ける。

―――美咲

ギィ....と軋んだ音を鳴らしながら、扉は開いて行った。

部屋の中の景色が、徐々に開ける。
俺はそっと瞳を細めた。

(ああ、美咲だ....)

愛しさが、心に込み上げる。

景色の中、明るい茶髪の少年が瞬間顔を上げた。
そして、俺を見つけて、目を見開く――――

俺は美咲と視線を交わらせて、切なく口元を歪ませた。




俺は、今からあの愛しい人の心の最奥まで―――鋭いナイフを突き立てるんだ。

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