☆Text-空白の石版-
□第五章 影
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【SIDE:猿比古】
それは一瞬の出来事だった。
俺はその時、上機嫌で昨日美咲から譲り受けた....誰が何と言おうと合意の上で美咲から譲り受けた....ハンカチを手に、学園への道を歩いていた。
昨日は美咲と追いかけっこ楽しかった、美咲可愛いよ美咲....何てぼんやり考えながら、何時もの通学路を歩く。
本当に、いつも通りだったのに。
(!?)
急に首筋に衝撃が走る。
鈍痛が瞬間脳内を走り抜け、出来事を把握するより早く、俺の意識は闇に閉ざされた。
「....起きたか」
不意に、誰かの声。
目が覚めた時には、俺は見知らぬ部屋に拘禁されていた。
小さな椅子に腰掛ける状態で、椅子ごと胴体を縄で縛り付けられている。
両手は身体とは別に、後ろで一纏めにして拘束されていた。
「なっ....!?」
思わず声をあげる。
ここは、一体....?
いや、それ以前に、どうして――――
「不思議そうだね」
その声に、俺ははっと顔を上げる。
俺の眼前には、俺より少し背の高い男。
(コイツは....)
俺はビクリと瞬間身体を固くした。
....男にしてはやや長めの黒髪に、鮮血のように赤い瞳。
そして妙に知的で精悍な顔立ち。
目の前の男は、K学園の生徒なら誰でも知っている筈の男―――八岐大蛇だった。
「八岐、大蛇....?」
「正解....流石に、お前まで知らないなんて事はないよなぁ」
俺が呆然として呟くと、八岐大蛇は楽しげに目を細めた。
その顔に浮かべているのは、不良達のトップのものとは思えない穏やかな微笑み。
(八岐大蛇が、何で....俺を....?)
じっとりと背中に冷たい感情が流れた。
段々と、自身の置かれている状況の異様さを認識し始める。
改めて俺は周囲を見回した。
部屋の中は殺風景で、およそ生活味を感じない。
そんな中、部屋の隅に似合わないやたら豪華な装飾のデカいベットがあった。
壁はホテルのスイートルームの様な一面のガラス張り。
そこから外の景色を覗き込む限り、この部屋はかなりの高所にあるらしい。
かなり遠くまで町の様子が見渡せた。
そして床には赤い絢爛豪華な絨毯――――
「チッ、一体....」
俺は目を細めると、目の前の男を淡く睨んだ。
八岐大蛇は別段それに構う様子も無く、にこやかに口を開く。
「警告」
二人きりの部屋に、八岐大蛇の静かな声が響いた。
その声は何処か狂気を孕んでいる。
俺は瞬間背筋が凍るのを感じた。
気持ち悪い。
本能がこの男を拒絶する。
「伏見猿比古、お前は....八田美咲の何?」
不意に大蛇は俺に目線を合わせると尋ねた。
(美咲....?)
俺は愛しい人の名前に顔を上げる。
何故、此奴が美咲の名を―――?
見上げた先には、大蛇の狂気染みた瞳。
「俺は八田美咲を手に入れる」
俺を一瞥すると、大蛇は唇を歪めた。
「俺だけの....美咲にするんだ」
俺は唖然として、言葉を失う。
此奴、今何て言った?
美咲を、どうするって....?
大蛇はくつくつと楽しそうにくぐもった笑いを漏らした。
それからそっと俺の顔に唇を寄せて囁く。
「だから、まずは教えろ。お前は八田美咲の"何"だ?」
ヤバい。
大蛇の吐息が俺の髪を揺らす。
俺は頭の中で警笛が鳴るのを感じた。
八岐大蛇、此奴はイカれてる。
俺は大蛇の瞳の奥を覗き込んでゾッとした。
此奴の瞳は、まるで深い闇だ。
ぽっかりと深い、深い穴が開いている様。
「....何だと思う....?」
俺はやっとそれだけポツリと返した。
本当は、こんな奴とまともに会話したくない。
しかし、話の内容が美咲の事なら....そうも言っていられない。
美咲を、こんな野郎に横取りなんて絶対にさせない。
「....調べたけど」
俺が睨み付けると、大蛇は淡い微笑みを浮かべた。
「そうだね。美咲との関係は"昔の友達"....って所で間違いなさそうだ」
大蛇はそれだけ言うと、はぁ、と息を吐く。
それから、蛇の様な眼差しで俺を射竦めた。
「けど、伏見猿比古―――お前にとっては違うだろ?」
此奴、何処まで知ってやがる....
背中にじわりと嫌な汗が滲んだ。
心臓が、少し早足で鳴り出す。
脳内で本能が悲鳴を上げた。
「....俺は」
俺は小さな声で呟く。
何と答えるのが正解なのか解らない。
けれど、何が正解だろうと、これだけは譲れない。
「....いや、美咲は―――俺のもんだ」
俺は強く大蛇を睨み付けた。
俺の言葉に、瞬間大蛇はピクリと身体を震わせる。
そして瞳の奥の空洞に激しい....どす黒い炎を渦めかせた。
「へぇ....」
大蛇の瞳が、加虐的に歪む。
そして俺は漸く彼の本当の姿を見た気がした。
彼は、まるで毒蛇。
全てを絞め殺し、毒をもって腐らせる。
(チッ....)
何て奴に狙われてやがるんだ、美咲は。
大蛇は俺の視線に自らのものを絡めると、にっと表面だけの笑みを浮かべた。
「じゃあ、一層ちゃんと警告しとかないとな....」
大蛇は静かに言い放つと、俺の首筋に手を当てる。
ぞわりと背中に冷たい予感が走った。
「二度と.....俺の美咲に近づくな!!」
不意に、耳が痺れそうな程の大声が俺に迫る。
大蛇の声が、俺の身体を貫いた。
「っ!!」
「何だってするさ―――美咲を手に入れる為ならなぁ!」
首筋に、大蛇の掌が絡みつく。
そっと首筋を大蛇に押さえられ、俺は息を飲んだ。
「いいか、覚えておけ―――」
心臓が煩く脈打つ。
その音を切り裂くように、大蛇は言葉を繰った。
「美咲には、金輪際一生....近付くな」
大蛇の瞳から、憎しみが燃え上がる。
「次はねぇぞ」
「....」
美咲に近付くな?
無理に決まってんだろそんなもん。
どうして俺がそんな事に従わなくちゃいけないってんだ....?
(巫山戯やがって....!!)
不意に腹の底から、マグマの様な苛立ちが沸き上がる。
(美咲は俺のものだ....ずっと、ずっと昔から!!)
そうだ―――
誰にも渡せない。
俺だけの、大事な美咲。
今は、あの頃みたいに傍に居られなくても。
彼奴の心を一番に向けて欲しいから、だから俺は―――
「....はは、どうして俺が、テメェなんかに従うんだ....?」
気付けば、俺はゆらりと呟いていた。
大蛇は瞬間目を見開く。
「でしゃばってんじゃねぇ三下ァ!!.....テメェ如きが美咲をモノに出来ると思ってんのかァ!!?」
吠えれば、大蛇は驚嘆を顔に貼り付けて俺を見ていた。
その理由は俺にも容易に想像できる。
反抗された事がないのだろう。
学園内に彼を知らない人間なんていない。
そして、彼が危険である事も。
学園中の誰もが知る所だ。
美咲の話さえ絡んでいなければ、俺だってこんな態度はとらないだろう。
多分。
「は....」
大蛇は乾いた声を漏らした。
「お前....面白いな」
....成る程、俺の敗けだ。
大蛇はそう言うと、俺の背中に静かに回った。
俺が拘束されている椅子の背に掌を当てると、つっと指でなぞる。
「それだけ美咲に執着しているお前が....美咲の心に一欠片も残っていないとは考え辛い」
大蛇の静かな声が、部屋に響いた。
「お前を美咲から遠ざけても....恐らく既に意味がないな」
ゆっくりとした大蛇の吐息が聞こえる。
俺は何も出来ない歯がゆさに唇を噛んだ。
「お前の手で自ら美咲との関係を完全に壊して貰う必要がある」
大蛇の唇から、恐ろしい言葉が吐き出される。
俺は身を固くした。
美咲との関係を壊すだと?
そんな事、誰がするか。
俺は、美咲の目をこっちに向けさせる為だけに....吠舞羅を止め、セプター4に入った。
その俺が。
美咲との"関係性"を保つ為に、全てを掛けた俺が―――自らそれを断ち切るだって?
(有り得ねぇ....)
俺は内心で呟いた。
そんなの、絶対に有り得ない。
苛立つ俺の背後で、不意に大蛇は小さく溜息を吐いた。
「....しかしお前は脅しに屈しない、参った。今の時点では俺の敗けだ」
「は....?」
大蛇の口から出た殊勝な言葉に、俺は瞬間呆然として声を漏らす。
「まぁ、美咲も昨日お前の事"嫌い"って言ってたし....今日の所はいいとしよう」
「!?」
何だそれ。
美咲が俺の事、嫌いだと!?
解ってはいたけれどはっきり言われると。
いや、それ以前にどうして此奴がそんな事....
「まぁいい、今日は帰れ―――」
「は」
トン―――
「っ!!」
再び首筋に衝撃が走る。
目の前で光が弾けて、再び俺の意識は闇に閉ざされた。
目を覚ますと、視界に入ったのは真っ白な天井。
(あ、れ....)
「今度は....」
「あっ、猿くん大丈夫?」
小さく呻いて身体を起こすと、不意にカーテンを開いて保険医の多々良先生が顔を覗かせた。
(あぁ、ここ....学園の保健室)
俺は見覚えのある人物の登場に、漸く状況を理解する。
「貧血かな、学園の前に倒れていたのをね....二年の子がここまで運んでくれたんだよ」
「二年....」
多々良先生の説明を復唱して、俺は目を瞬いた。
二年と言うことは、八岐大蛇ではないのか。
まぁ案外大蛇の手下だったりする奴かもしれないが。
「猿くん大丈夫?倒れた原因に何か心当たりは?」
「....」
原因も何もない。
俺は心中で小さくぼやく。
八岐大蛇のせいだ。
俺は八岐大蛇に拉致られてました、と....素直にこの人に伝えるべきか....?
俺は考えてから、ちらりと多々良先生の人好きのする優しい笑顔を見つめた。
(チッ....)
いや、もし俺が余計な事を喋れば....八岐大蛇は多々良先生にまで何か危害を加えるかも知れない。
「なんでも....ただの貧血だと」
「そうなの?本当に....?」
「....」
多々良先生は目を細めて俺の顔を覗き込んだ。
俺は小さく舌打ちする。
「本当です」
呟くと、俺は顔を背けた。
「....そっか、じゃあ今日はちゃんとご飯食べるんだよ?」
多々良先生はそんな俺に優しく言う。
「....はい」
「うん、よし」
多々良先生はにっこりと笑った。
俺が、吠舞羅の一員だった時と寸分違わぬ笑顔。
(やっぱ....この人は苦手だ)
俺は心中で小さく呟いた。
先生の変わらぬ優しさが、俺に一番深く刺さるんだ。