一輪の花
□二、早退
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よう、と声を掛ける。彼女はビクリと肩を震わせ振り向いたがしかし、原田の顔を確認して息を漏らす。先生、と小さく返答が有った。
「今日は早退だっけか」
「はい、また通院です。もう大丈夫だって言ってるのに、親が過保護で……全く」
まだ三限終了のチャイムも鳴っていない。和音は鞄を片手に、先とは違う溜め息を吐いた。深く。なるほど、大変そうだ。彼女と母親との関係が良好でないらしいことは薄々勘づいていた。原田も担任という立場から何度か会っているが、何というか、仮面夫婦の親子バージョン、と言えば伝わりやすいだろうか。そんな雰囲気の親子だった。
入院中の和音を思い出す。母親は、原田が訪ねている間非常に丁寧に接客をした。良い人柄だな、と思ったのは最初だけで、良く良く和音を見てみれば印象は見事に掻き消される。
和音は寝癖も直さず、薄着で肌寒そうにしていた。それは本来、母親がやって然るべき仕事だ。やって来た看護師が髪を解き、毛布を被せる。ドライな家庭であることは一目瞭然だった。勿論、母親本人も心配している節は有った。通院云々もその名残だろう。しかしそれは、母親の最低限の義務であり、過保護などでは決してない。
過保護に見せ掛けた、母親の自己満足。
『良い母親』だと自身を錯覚させるための。
彼女たちは親子ではなく、他人同士が親子を演じているのだ、と何度目かの見舞いの際和音が苦笑していた。
仮面親子を隠すつもりは無いらしい。
「そう、か……頑張れよ。親御さんも心配してんだ」
自分も他人という点に於いては原田も似たようなものだ。高校教師など、一個人のラインに侵入するには堅すぎる肩書きを持ち合わせている自分は。
そして、そのラインを越える必要も無い。
教師という立場だからこそ、今時の世間は生徒の内情に深入りし過ぎると間違いを起こしかねないのだ。
しかし――
「――無理すんなよ」
必要が無いからと言って。
教師だからと言って。
無視して良い道理など――無い。
「……はい」
苦笑と共に返って来た声には、僅かに安心が含まれていた。良かった。どうにか、少しでも、祓うことが出来た。
和音に覆い被さったそれを。
「辛かったら言え。何とかしてやっから」
「ふふ、たかが一教師が大きく出ましたね」
「たかがって……お前もうちょっと言い方、」
「非常識さは先生だって負けてませんよ。今時こんな優しい教師は稀です」
「そうか?」
「はい。この学校は、少々優しい人が多過ぎる気もしますが……」
「何処でもこんなもんだろ?」
「本気で言ってます?」
話してる間にも和音は少しずつ笑顔になっていく。同時に、笑うと良い顔してるな、なんて考えてしまって一旦気持ちを整理する。
危ない危ない。
いくらなんでもこの感情はマズい。
一歩下がった位置から再び和音を見た。そして――その目が、捉える。
疼くまる彼女を。
な、何だ?
どうした……?
「――和音!」
「だ……大丈夫、」
「見えねえよ!一旦保健室に、」
「平気です。何処も痛くないし、ちょっと、疲れただけ」
ゴシゴシと目元を拭う。彼女が流していたそれは跡形無く、その袖に吸収された。
泣いていた。
理由はわからない。
しかし泣いていた。
苦し気に顔を歪めて、
堪えるように。
それなのに。
「――あまり生徒を呼び捨てにするもんじゃないですよ、先生」
「……」
何事も無かったかのように、
和音は、立ち上がる。
「……もう良いのか?」
「大した発作じゃ有りません。行方不明中に何らかの精神攻撃を受けたのが原因らしいんですが……如何せん良く覚えてなくて」
「……」
「まあ今までも千鶴ちゃんが助けてくれたりしてたので……それに、マシにはなってきてるんですよ」
「そう言う問題じゃねえ」
「……ですね」
治療、頑張ってきます。そう言って
笑って去って行く和音を無言で見送った。今までも千鶴が――知らなかった。全く、ちっとも。母親からの連絡も無かった。まさか、誰にも相談していないのか。医師以外には、誰にも。
「……んでだよ……」
どうにもならない感覚に苛まれ立ち尽くす。
授業開始のチャイムが、校内に鳴り響いた。
(2013/6/2)