紫紺の楔
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あれから自宅に戻り、鳴海は身仕度を整えた。
と言ってもいつもと変わらない、食事と入浴である。
《それじゃ行くよ、お兄さん》
『ああ、頼む…!』
ユキがお面の中で目を閉じ、人には聞き取れないような、まじないを唱える。
鳴海は自室にある、唯一時刻を示している腕時計を見た。
――20時37分…
普段自分が就寝するのは23時。
いつもより約2時半ほど早めて“あちら”へと向かう。
実際、“あちら”と“こちら”では時間の流れ方が異なっている。
正しくは“あちら”は閉ざされた空間であり、“こちら”と比べて時間などあって無いようなものと思われる。
――オ兄サン行クヨ……!
脳内で透き通った声がしたと同時に、また視界が暗闇に包まれる。
高所から落下するような感覚にゾワゾワと全身が粟立ち、冷や汗も浮かぶ。
しばらく、この感覚に慣れる事はないだろう。
むしろ、これを何度と経験しなくて済むように、今回で大きな進展を得たいものだ――。
**********
『っ……』
しっかりとした感触を、足裏に感じ取る。
しかし、視界がどうしても暗いままだ。
『ここは……?』
どこかカビ臭さと埃っぽさを感じた。
暗闇に眼が慣れる事を待っていると、微かに声がした。
それはどんどん近づいて来て、やがて壁1枚分ほどの距離で止まった。
「…………に、……は……ますね」
「……に……み…さえ………ないな」
(………誰だ?)
壁から遠い位置に居るのか、その声が発している内容がうまく聞き取れない。
徐々に眼が慣れてきて、辺りがうっすら認識出来るようになった。
空間を見回そうと視線を落とした直後に聞き覚えがある声がした。
「オレもいっちょ、頑張ってみますかー!!」
『――! たかっ……ぅお!?』
先程まで意中を占めていた彼の声に大きく反応し、足下への意識が疎かになった。
そして、慣れてきた視界に捕らえた物は、バレーやバドミントンで扱うネット。
それに足が絡まってしまったようで、バランスを崩した鳴海は後方に倒れ込んだ。
すると同時に目の前の壁、もとい扉から光が射し込んだ。
青白い、人工的な光源は、間違いなく自分がカバンに入れていた懐中電灯だ。
「え……」
あまりの眩しさに目を閉じていると、聞き慣れた素っ頓狂な声が聞こえた。
高「鳴海……サン…」
『高尾…か?』
手を目の上に翳し、扉を開けたらしい高尾の姿を捉えた。
紫「あー、ナルちん見っけ〜」
ひょっこりと顔を覗かせた紫原の後ろには、黒子や伊月、赤司に緑間なども居た。
高「鳴海サンっっ!!」
呆けていると、高尾が歓喜のあまり突撃して来た。
一瞬でそれを理解した鳴海は急いで実体化する。
『っ……!!!』
首に衝撃が走る。
しかし位置的に正解だったようだ。
咄嗟の判断で、鳴海は上半身を実体化した。
なので、絡まっていたネットは静かに足をすり抜け、床に落ちた。
【灯台下暗し】で、懐中電灯の明かりで一段と暗くなった鳴海の足下に気づく者は居なかった。それこそ、あの赤司であっても。
『……よかった、無事だったんだな、高尾』
高「っ、オレのセリフっすよ…!」
実体化した指で、高尾の頭を撫でてやる。その時、髪の一部分に湿り気を感じた。
『お前…泣いたのか?』
逆光で顔が判らないが、高尾の目元を探ってみると、少し腫れぼったさを感じた。
『まさか、どっか怪我して…』
高「ちょっ、オレいくつだと思ってんすか!? 普通怪我したくらいで泣かないっすよ!」
至近距離の大声に、鳴海は思わず眉間にシワを寄せる。
しかし、耳に届くのが鼻声だと気づき、鳴海は再度高尾の頭を撫でた。
『泣くな、高尾…』
高「鳴海サン…、オレ…っ」
この時高尾は、倒れた鳴海を教室に置いてきてしまった事を考えていた。
今はこうして見つかって良かったが、もしあの時、自分が彼を背負ってでも逃げていれば、はぐれてしまう事などなかったはずだ。
『………』
一方で鳴海は、突然居なくなって悪かった。と言うセリフを飲み下していた。
無意識に零れそうになったそれ。けれど、そのセリフは時に墓穴を掘る危険があり、言うわけにいかなかった。
上記の言葉は、自らが“居なくなった”という意味が含まれているのだ。
赤司や緑間、黒子や伊月に紫原、そして高尾。
ここに居合わせるメンバーは、どうも勘が鋭かったり、頭が良い者ばかり。
下手な発言は控えるべきなのだ。
『無事会えたんだから、その話はもうやめだ。……だからそろそろ退けよ』
高「ちょ、センパイ!オレの鼻潰れちゃう!!低くなっちゃうっっ」
いつまでも首に巻き付いている高尾を離すべく、鳴海は高尾の無防備な顔を力一杯押す。
その際、掌がきつく鼻を押す為、高尾が悲鳴を上げる。
高「センパーイ!痛い痛い!本当に潰れちゃうっっ!」
『元がいいから、鼻が低くなったって問題ねーよっ』
グイグイ押すが、高尾が何気にしぶとい。
あ、コイツ面白がってやがる。
鳴海はそれを知り、更に力を強めた。
不意に、掌に伝わる感触が消えた。
驚き、視線を上げる。
逆光で表情は見えないものの、懐中電灯の光が当たり、彼の特徴的な緑髪を照らし出していた。
『緑間クン……』
緑「高尾、ふざけるのも大概にするのだよ。鳴海さんが困っている」
高「真ちゃん!首っ!首絞まってる!!」
グエッ!などとカエルのような声を上げる高尾に構わず、緑間は彼のジャージの襟を引っ張り、鳴海から引き離した。
高「真ちゃんヒデェ!鬼っ、悪魔っ!おは朝信者っっ!!」
緑「なんだその低能な悪態は…。おは朝については、俺は信者などではない。ただあの番組のおは朝占いは絶対なのだよ」
少し方向性がズレた口論が始まるかと思いきや、テーピングされた細く長い指が、手が、目前に差し出された。
『っ…、』
それは緑間の、それも大事な左手だった。
大事な左手、という部分まで理解は及ばなかったが、手が差し出されているという事実に、鳴海は数秒ほど目を見開いていた。
緑「……どうかしたんですか。まさか、足に怪我でもされているのですか?」
『あ……ぃゃ、サンキュ…』
鳴海は緑間の突然すぎる変化に疑問を抱きながら、彼の差し出してくれた手を握った。
緑「………」
身長的にも緑間の方が高く、また体力も彼の方が遥かにあるだろう。
結果として、緑間は容易く鳴海の体を起き上がらせてしまった。
効果音が存在したなら、ヒョイっと……。
『…………』
何だろうか、この敗北感は……。
制服のズボンに付いてしまった埃を払い、緑間を一瞥する。
逆光でやはり表情は判らない。
緑間の纏う雰囲気は、やはりどこか違うように思う。
昨晩の彼は鳴海に明白な敵意を向けていたはず。
しかし今の彼からは、それほど険悪なものを感じない。
緑「………なんですか」
『あ…悪い』
一瞥するだけのつもりが、気がつけば凝視してしまっていた。
謝辞を口から溢せば、緑間はカチャリと、ズレてもない眼鏡を正した。
それも落ち着きなく、カチャカチャと…。
高「ちょっ、真ちゃんっっ、眼鏡どんだけカチャカチャ言わせてんのっっ!? 言いたい事はハッキリ言うのだよっっ」
何か言いたげな緑間の背中をバシバシ叩き、高尾は彼を急かした。
緑「……………鳴海さん」
『おう?』
そう言われれば、彼から名前を呼ばれるのは今に始まった事だ。
昨晩では主に“貴様”や“そいつ”と呼ばれていた。
緑「………す」
『す…?』
緑間は視線を明後日の方に向け、絞り出すように言った。
緑「……す、すみません…でした」
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