紫紺の楔
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『なッ……!!!?』
この男子トイレには計4つの鏡が設置されている。
鳴海が居る割れた鏡を最前とするなら、その真逆の位置にある比較的キレイだった最後の鏡にヒビが入ったのだ。
何かが当たった訳でもない。
しかし、鏡はその中心からまるで石を投げ込んだ水面のように円を描きヒビ割れていた。
《お兄さん逃げよ!》
『え、は…?』
《いいから!急いでここから離れてっ!!!》
ユキの焦った声に急かされ、鳴海は脱兎の如くトイレから転がり出た。
その際、普段のクセからドアノブに手を掛けたが、霊体と言う事から、すり抜けてトイレから脱出した。
『―――!!!!』
一瞬、視界の端に3番目の鏡が写り込んだ。
その時に見えたのは、長い長い髪を垂らし、不気味な笑みを浮かべ天井に張り付いている怪物だった。
――――---……‥‥
『はっ……はっ…ッ…』
《お兄さん、大丈夫かい》
心臓が煩いほど早く鼓動する。
ドクドクと打つその動脈が、先程の光景が嘘ではないと言う事を知らしめている。
確かに、この廃校には、【怪物】が存在している。
『疑ってる訳じゃ……なかったんだけどな…っ』
自分がとんだ浅慮をしていた事に、思わず苦笑いが浮かぶ。
鳴海とユキは3階と2階を繋ぐ階段の踊り場に居た。
しばらく壁に背を預け、少し落ち着いた鳴海は踊り場に設けられていた小窓を覗いた。
『不気味だな……』
窓の外は黒ペンキで塗り潰されたかのように真っ黒な空間だった。
自分が本当に外を見ているのかも不安になる程だ。
《ここは、彼らが強大になった霊力で作り上げた、閉ざされた空間なんだ》
ユキから発せられたのは驚くほど静かな声だった。
《この世のどこにも存在しないにも関わらず、この学校は【現実】の廃校と同じ場所に、静かに、人知れず存在しているんだ…》
ユキは鳴海の来ているブレザーの肩口をキュッと掴んだ。
鳴海は踊り場から2階へと降りてきた。
そして教室が並ぶ廊下を見て、鳴海は呟く。
『2階に3年の教室があるのか』
ユキが言うには、この棟の1階に職員室があり、何かあればすぐ下に聞こえるという仕組みらしい。
鳴海は実体化し、1つ1つの教室を確認していく。
すると、開いているのは3-1と3-9だけだという事がわかった。
『9組まであんのか…?ずいぶんでかい学校だな』
《かつてはこの学校には1000人もの生徒が通ってたんだよ。1学年333人ってゾロ目でね》
『へぇ…』
「――――ぇ……ぞ!!」
「……ろこ………きか!?」
「―――………です…」
鳴海の居る廊下の反対側から、複数の慌てたような足音がした。
ただ事ではないと、そちらの方向に顔を向けた。
徐々に見えてきたのは、長身でガタイのよい4人の少年達。
いや、4人ではない。
他の4人と比べたら幾分も小柄ではあるが、もう1人必死に走る水色の少年が居た。
そしてその後ろには……
『――何だよアレはッ!』
ボロ布を纏い、枯れ木のような痩せ細った体、その手には恐らく人だったであろう肉塊。反対の手にはその首だったであろう物体を持っていた。
首の断面を見る限り、鋭利な物で斬られた訳ではないようだ。刃物で斬られたにしてはずいぶんと歪だった。
するとその怪物の口元に目がいく。そして理解する。
あの死体は、あの怪物に喰い千切られたのだと。
ギラギラと輝くそのギザギザな歯に加え、口元から顎にかけて夥(オビタダ)しい量の血が付着していた。
《ア"アア"ァァ"……ァ"ァ"》
日「くっそ!おい急げ!足を止めたら喰われるぞ!!」
火「黒子っ!大丈夫かッッ」
黒「ッ…はっ…」
木「どこか、どっか教室は開いてないのか!?」
伊「ダメだ!3-9まで遠すぎる!このままじゃ黒子だけじゃなく俺達もヤバイ!」
そうだ、今は悠長にしてる場合じゃない。
今彼らは3-4前を通過した。
これだけの教室があると、廊下の長さも通常では考えられないほど長い。
しかも、水色の少年の体力も危うい。
怪物も肉塊を引きずっているにも関わらず尋常じゃないほど速い。
このままでは他の彼らも危険だ。
鳴海は3-6の教室に浸入し、実体化して後ろ側の引き戸の鍵を開ける事を試みる。
しかし焦っている所為で中々実体化が出来ない。
どんどん足音が近付いてくる。
鳴海は一度息を整え、開錠する事を一心に考える。
ガチャン…
『開いたっ!!』
すぐそこまで足音がやって来た。
鳴海は引き戸を勢いよく開ける。
一瞬、先頭を走っていた眼鏡の少年と赤髪の少年が突然開いた扉に驚き、目を見開いたのが見て取れた。
鳴海はその2人の腕を強引に引き、教室に引きずり込んだ。
伊「日向、火神!?」
2人が突然開いた教室に引きずり込まれた事に驚いた少年はたたらを踏んだ。
背後には怪物が速度を緩める事なく追い掛けて来ている。
鳴海は再び強引に、固まってしまった少年と、いつの間にか水色の少年を肩に担ぎ上げていた大柄の少年を教室内に引きずり込んだ。
伊「うわぁ!!」
木「うぉお!!」
黒「ッ…!?」
同時にピシャリと鍵も忘れず扉を閉める。
後ろ手にそれを行い、鳴海は扉に背を預け、教室内を見回す。
教室内では、彼らが息を整えていた。しかし恐怖が拭えないようで、短い呼吸を幾度も繰り返していた。
日「い、ま…誰かに腕を掴まれた…!」
火「オレも…っす」
木「俺もだ…」
伊「誰か…居るのか…!?」
黒「はぁ…はぁ…」
彼らは教室を隈無く見渡すが、鳴海は今ユキが背中に憑いている為、姿も声も認識されない。
火「っ、まさか…別の怪物が…!!」
伊「いや…この部屋には、何も居ないように思う」
木「それに、まるで人間とそう変わらない体温だったと思うぞ」
黒「…では、本当に誰か居るんでしょうか」
彼らは再度辺りを見回す。
するとその時、背後の扉が力任せに叩かれた。
ガァン!ガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガン―――
火「ヒィッ!」
日「ヒッ…!」
恐らくホラーを苦手としている赤髪の少年と眼鏡の少年が、素早く扉の反対側に移動した。
その他の少年らも、落ち着いたばかりの呼吸が乱れ始める。
今気休め程度でしかないが、扉は鳴海が抑えている。
しかし、やはり古びた木製の扉。壊されるのは時間の問題だろ。
自分だけなら、容易く逃げられるだろう。
しかし鳴海の頭にその考えは浮かばなかった。
教室の中で恐々し、震える彼らを見る。
中には鳴海より巨躯をしている者も居るが、彼らは自分より年下だろう。
何故かそんな事が頭に浮かんでいた。
聞けばほとんどの者は「そんな理由で」と呆れるかも知れない。けれど鳴海は“そんな理由”で動く人間なのだ。
――関わりなんて全くねぇけど、自分より年下の奴らが困ってんなら、年上の俺が危険を冒す十分な理由になる。
問題はどこへ逃げるかだ。
確か3階には先程の怪物の他に、数人の少年達が居たはず…なら――
鳴海は考えを纏め、渇いていた喉に唾を嚥下する。
何かを察したらしいユキは、鳴海のブレザーをキツく握りしめた。
『……ユキ』
《ボクなら平気だよ。だから、間違っても置いて行こうなんて考えないでね?》
『悪い』
ユキに謝罪を入れ、鳴海は荒くなりつつある呼吸を落ち着かせる。
こうしてる間にも、彼らの表情は強張り、扉も悲鳴を上げ始めている。
鳴海は反対側の扉からすり抜け廊下に出る。
怪物は鳴海に気付かないのか、はたまたユキのお陰で視えていないのか、扉を叩き続けている。
しかもただ叩いているだけではなかった。正直見なきゃよかった…と鳴海は思った。
でも普通に考えれば容易に考えられた事だった。
怪物は片手にはかつて体だったであろう肉塊、もう片方には首を持っていた。つまり扉を叩くなら、どちらかの手を空けるか、または……
答えは濁した後者だ。
怪物は首を持ったまま、それを叩き付ける形で扉を叩いていたのだ。
古びた木製の扉にはビチャリと赤が飛び散り、床には叩き付けた際に千切れた肉塊が落ちていた。
込み上げてくる吐き気に耐えながら、鳴海は怪物の背後に回り込んだ。
手にはその辺に落ちていた木片を握っている。
鳴海はそれで力いっぱい怪物を殴り付けた。
《ガア"ア"ア"アアァァッ!!!!》
刹那怪物は悲鳴を上げ、体を傾かせた。
鳴海は倒す気で怪物を殴った訳ではない。
『――こっちだ!ゲテモノ野郎っ!!!』
走り出したと同時に、怪物は鳴海をその視界に捕らえた。
どうやら怪物達には彼の姿が視えるようだ。
そして恐らくあのトイレの怪物も、鳴海を視て笑っていたのだろう。
鳴海は1階に向かって走り出した。
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