紫紺の楔

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『お前は……どうしたい?』


鳴海の問い掛けの意味を汲んだユキは俯き、か細い声で言った。



《お、お…兄さん達を…助けたいんだ。このままじゃ…みんないずれ彼らに殺されちゃう…!》








《で、でもボクには…もうあまり力が残ってないんだ…っ。助けたくても…もうボクだけじゃどうにも出来ないっ…!!!》


ユキの声は震えていた。
ポタポタと、面の隙間から水滴が零れ落ちてゆく。

けしてその雫は下に敷かれたカーペットを濡らす事はないが、この小さな神が流す雫は嘘や偽りではなく、確かな“真実”だ。




『……その為に、俺を選んだんじゃないのか?』


《――っ》


『俺には何の取り柄もねーけど、お前がやりたい事をする為の媒体にはなり得るんじゃねーかな』


《……本当に…いいのかい?》



『大丈夫だ。……俺は何をしたらいい』

優しい声だった。
鳴海の言葉を受け、ユキは面の中の雫を拭い、立ち上がる。




《ホント…お兄さんは変だよ》


『…たまに言われるよ』


恐らくユキは微笑んでいる。
面で見えないが、鳴海はそう直感した。




《――お兄さんの【名】を教えておくれ》


鳴海は口角を上げ、一度目を閉じ、静かに息を吸う。






『鳴海だ。――鳴海 恭介』

窓も開いていない部屋で、柔かな風が吹く。




《ボクに、力を貸しておくれ……
鳴海 恭介

ユキが小さな手を鳴海へ差し出す。



『もちろんだ、よろしくな
ユキ

互いの掌が結ばれた刹那、一際強い、しかし二人を包むかのような優しい風が吹いた。







――――---……‥





どこかで水が落ちるような音がした。
鼻腔に入ってくるのは、埃やカビなどの古臭い匂い。


――……ィ……ン!



透き通るような幼い少年の声が聞こえた。



――…オ兄サン…!




『っ……』


声が近くで聞こえ、その声に誘われるように目を開ける。



《お兄さん、気分は何ともないかい?》


『…ああ』

鳴海の傍らにユキが立っていた。上体を起こし、周囲を見回す。
そこは薄暗い教室だった。



『ここは…?』

先程まで自分達は鳴海の自室に居たはずだ。
埃を被った床に手をつき、立ち上がる。その時に左胸部、所謂心臓があると思われる位置に違和感を覚えた。

制服のままだったようで、少し手間取るが、胸元をはだけさせ、左胸を見る。



『……紫紺の…楔?』

淡く紫紺色に光る楔は約3〜5cmと小さな物だったが、本来何かの道具とうを繋ぎ止めて置く為のソレが、何故自身の、それも心臓に当たる部位に刺さっているのだろう。

特別痛みも息苦しさもない。
しかし楔のV字に尖った部分が、深々と急所に突き刺さっているのだ。

鳴海は恐る恐る楔に手を伸ばす。




《お兄さん、それ抜かないで!》


慌てたようにユキが制止に掛かる。




《その楔はボクの霊力で作った、言わばお兄さんの肉体と精神を繋ぎ止めておくものなんだ。だから抜いちゃダメだよ!》


『肉体と…精神?』



《それじゃ改めて状況の説明をさせてもらうよ?》


ユキは自分達が今、どの様な状態、また状況に居るのか話し出した。


ここはかつてユキが祀られていたと言う廃校。
鳴海が居るのは2-1の教室。
この教室の隣にはトイレがあり、始めに鳴海が聞いた水音はそこのものだろう。

また、この学校は例の行方不明事件の生徒達が閉じ込められている場所。と同時に、悪霊や怪奇の者達の巣窟である事。



《そしてお兄さんについてだけど…》



ユキは続いて鳴海の状態を説明する。




《今お兄さんは、精神だけこの世界に来ているんだ。要するに思念体な訳なんだけど……》


『思念体…?』

鳴海はあまり聞き慣れない用語に眉を顰める。


《うーん説明が難しいなぁ…。やっぱり実際に体験してくれた方が解りやすいかな》


そう言うとユキは鳴海に教室を出るよう促した。

その時、微かにいくつもの足音が聞こえてきた。



鳴海は教室の引き戸を開けるため、扉の窪に手を引っ掛けた――はずだった。



『―――!!?』

スルリとすり抜ける、と言えばいいのだろうか。
鳴海の腕は引き戸の窪を触れることなく、扉その物をすり抜けてしまったのだ。

鳴海が絶句し、混乱していると、廊下から「ぎゃぁぁぁっ!!!」と悲鳴が聞こえてきた。


鳴海は咄嗟に腕を引っ込め、息を殺した。










「い、いいい今っ!そ、そこの教室からっ!う、腕、腕が出たっス!!!」


「う、うるせー静かにしろっ!!シバくぞ!」

途端廊下で誰かが叩かれる音がした。



「とにかく、今は森山が目覚めたって言う2-2から調べよう」

「ああ…そうだな」

鳴海が居る教室の隣が開けられる音がする。





『……何だったんだ、今の』


《今お兄さんが体感した通りだよ。今のお兄さんには実体がない状態で、仮にここを【異】の世界、本来お兄さん達が居た世界を【現実】と名付けようか。

つまり【現実】にお兄さんの肉体があり、お兄さんはこの【異】に精神だけやって来たのさ。胸の楔は、その肉体と精神を繋ぎ止めているんだ》


正直頭がついていなかない。
鳴海は自分に理解しやすいように変換する。


つまりここは異世界で、自分は幽霊に近い状態でここに居る。
もちろん先程のように物体に触れる事は出来ない。
幽体離脱のような感じで、肉体は自宅の自室にて眠っているのだろう。





《因みにさっき言ったけど、お兄さんは一種の“思念体”でね、強い思念を持てば、物体に触れる事ができるよ》



『強い思念…』

やってみて、とユキは言うが、今まで触れる事が当たり前だった物体に、「触れたい」などと思う事が難しい。

頭を抱える鳴海。しかし物は試しだと、半ばやけくそ気味にその辺の壁に触れてみる。




ペタッ…



『……!!……さ、触れた…!』


試しに他の黒板消しや机や椅子などに触れてみる。

どれも普通に触れた事のある物質の感覚だった。

気を抜くとすり抜ける事もあるが、鳴海は教室にある物のほとんどに触れる事が出来た。



『…便利なもんだな』

鳴海はそう呟いた。
この体に実体が無い分、鍵を使わず至る所に出入り出来るし、触れたいと思えば、触れる事も出来る。


一方で、実体が無いとは言え、先程廊下に居た誰かの言葉から、姿までが透けている訳ではないようだ。

そうなれば、もし仮に誰かにすり抜けた瞬間を目撃されたら、まだ見ぬ化け物と誤解される可能性もあり得る。


顎に手を当て、思案する鳴海の心を察したのか、ユキはその広い背中に負ぶさって来た。


『どうしたんだ?』


《これなら、心配ないよ。今お兄さんはボクの霊力によって、完全な霊体化しているからさ》


ユキは得意気に言うが、鳴海は何の事なのか解らない。

先程身に付けた実体化を使い、引き戸を静かに開け、警戒しながら隣にあると言うトイレに入る。


トイレに入った鳴海は咄嗟に咽喉をひきつらせた。
夜のトイレと言うのは、実に雰囲気がある。本当に何かが居そうだ。

《……気を付けて》


『…驚かすなよ』
鳴海はユキの呟きに肩をビクつかせ、一番入口に近い割れた鏡を見る。


『―――マジかよ』

自分の背後には、目印と成りうる張り紙がしてある。
本当なら鳴海に隠れて見えなくなるはずのそれの前には、鳴海の姿は写っていなかった。



《……あまり鏡がある所はお勧めじゃないから、急いでここから出よ――》


ガシャン……!



『!!!?』

この空間のどこからか、ガラス、または鏡が割れたような音がした。

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