紫紺の楔2
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『ッ!あ、……ぐ……っ……っ、っ……!!』
喉に鋭く尖った歪な"歯"を突き立てられ、苦しげに藻がいていた鳴海の手足が、力なく床に投げ出される。
霊体である為に、血は流れていない。
怪物は"鋭い歯"を突き立てながら、ふと首を傾げた。
"コレ"がただの人間ではない事は解っている。だから血が出ない事は不思議ではない。
怪物はぐったりしている鳴海の喉元から頭を上げる。
爪先から髪の毛先までまじまじと鳴海を眺める。
見た感じ、ただの人間、強いて挙げるなら浮遊霊に見える。
"ただの"浮遊霊とは思ってはいないが、食い殺せば、自分の"身"となるはず、と……
怪物は目を剥いた。
倒れた鳴海の口元が、僅かに弧を描いた気がした。
*****
『ん、……っ。……よし、怪物は"俺"を追い掛けて、今3階の廊下に居る。出るなら今だな』
鳴海は閉じていた目を開き、心配そうに覗き込んでいる2人に言った。
『火神クン、肩借りてごめんな』
火「いや、それはいいっすけど……」
高「センパイ、体平気なのかよ……」
高尾の青白い顔を見て、鳴海は彼の顔を覆うように手を翳した。
『今のとこ、大丈夫だ。一応最小限に絞って"作った"しな』
―――――――…………‥‥‥
――数分前、
『ちゃんと考えがあるんだ。……だから、俺を少しでも信用してくれてるなら、2人の為に行かせてくれ』
高「考え、って……。つか、その言い方ズリィよ、鳴海サン……」
『……ごめんな』
鳴海は未だに殴られ続けている扉に手を置く。
そして、"逃げる自分"を扉の向こうにイメージする。
例を挙げるなら、目を閉じて、家の中を想像するあのイメージに近いだろうか。
成功するかどうかなんて判らない。
それでも、彼らを無事に体育館まで連れて帰らなければならない。
一瞬、怪物の背中が見えた気がする。
その瞬間、鳴海の体が埃を被ったカーペットに沈んだ。
高「鳴海サンッ!!」
反射的に駆け寄り、鳴海の体を抱き起こす。
"勾玉"の力が体内に残っている為、普通に体を起こす事が出来た。
火神も駆け寄り、2人で鳴海の具合を窺っていると、扉の向こうから鳴海の声がした。
火「どう、なってんだ……?」
火神が呟く。
高「……もしかしてセンパイ、自分を"もう1人"作ったのか…!?」
火「は!? もう1人……!? なに言ってんだよ!?」
高「要するに、アレ、"分身"!!どういう仕組みか解んねーけど、鳴海サンは分身を囮にしたんだ。たぶん…」
人の走る音と肉塊を引き摺る音が遠ざかっていく。どうやら高尾の言った事は正解のようだ。
未だに戸惑う2人だったが、取り敢えず火神が鳴海に肩を貸し、いつでも出れるよう準備した。
―――……‥‥
慎重に扉を開け、周囲を入念に見渡す。
高「……大丈夫っす。まだあいつら以外の怪物は来てません」
『よし……2人共、準備は良いか?』
高尾と火神は頷く。
鳴海、火神、高尾の順番で校長室から出る。
3人は出来る限りの警戒心を持って、体育館を目指す。
物音を立てないよう静かに廊下を進んでいく。
高「なんつーか……、思ってたより怪物がやって来ないな…」
高尾が溢すと、鳴海が溜め息を吐く。
『お前、さっきあんな目に遭っといてよくそんな事言えるな』
高「そうなんですけど、何て言うか……。うまく言えねーけど……」
高尾が歯痒そうに眉間にシワを寄せる。
しかし、高尾が言わんとする事は何となく2人にも解っていた。
鳴海も、最悪の場合、大量の怪異たちに追われる事を想像していた。
しかし、現実はその真逆。
自分達の足音以外の"音"がまったくとして聞こえない。
正直不気味だった。
目前に、体育館へと続く渡り廊下の鉄扉が見えた。
階段の陰から反対側の廊下を望む。
やはり怪物1体、高尾達が見たと言う幼女も居ない。
鳴海は火神達を先に渡り廊下へと走らせる。
2人が鉄扉の扉を開けても、怪異たちは姿を現す様子もない。
(杞憂……だったのか?)
だがまだ安心は出来ない。
2人を無事に送り届けるまで――――
鳴海が足を踏み出そうとすると、酷い目眩に襲われる。
『…………ッ』
―――こんなタイミングで……っ
咄嗟に傍にあった壁に手を突く。
視界が気持ち悪い程グニャグニャ歪む。
次第に、左胸が熱く―――
『……、?』
・・・
否、冷たくなっていく。
高「鳴海サン?」
異変を察知した高尾が声を掛ける。
鳴海の足元は、辛うじて立っている、と言った感じで、今にも壁に凭れ掛かりそうだ。
火「おい、大丈夫か!……ですか!」
(駄目だ……、あの2人は体育館に……)
言う事を利かない体を必死に動かし、その旨を伝えようと試みる。
だがその時、足から力が抜けてしまい、前のめりに倒れ掛かってしまう。
火「っぶね!」
膝が床についた時、火神が間一髪鳴海の上体を支える。
霊体の為、倒れたところで痛みなど無いのだが、火神のおかげで倒れずにすんだ。
再び2人の心配そうな表情が目に入る。
(助けに来といて、そんな表情させるなんて、情けねーな……)
自嘲の笑みが浮かぶ。
高「っとにかく!センパイを担いで体育館に急ごうぜ!」
高尾の言葉に火神が頷く。
その時、傍らの階段から物音がした。
2人の背筋に走る寒気。
前後共に、渡り廊下まで距離がある。
火神は鳴海を抱え、目の前の「保健室」に駆け込んだ。高尾も後に続き、「保健室」へ入った。
保健室内で、緊迫感からくる乱れた呼吸音だけが響く。
火神が足で埃を払い除け、そこに鳴海を座らせる。
鳴海は両手を左胸に当てており、虚ろな眼を宙に向けている。
***
霞む視界の端で、火神と高尾の顔が見える。
心配そうに自分を見ている。
大丈夫だと言ってやりたい。
これは単に現実世界に戻る際の反動だと……
―――……本当にそうか……?
ハッキリしない意識の中で押さえた左胸。
その下に刺さった楔を中心に、体全体が"冷えていく"感覚。
この2日間、こんな風に寒いと感じる事はなかった。
しかし、目覚めかけている実体に引っ張られる感覚は覚えがある。
抗いようのない眠気のようなものに、意識が引っ張られる。
その時、ゾクリと全身が粟立つ。
体育館を出た時から感じていた、あの視線。
それがとても近い所で感じる。
……前、上、左右……それとも背後……?
また、引っ張られるような感覚。
―――し、た……?
鳴海は視線を落とした。
『 、』
声が、出なかった。
視線を向けた先には……痩せ細り、醜い顔をした小さな怪物が、鳴海の体に何体も纏わり付いていた。
一瞬幻覚かと思ったが、視線が交わった時、引っ張られる感覚が強まった。
そして、思わず叫びそうになった。
どこか判らない、例えるなら"何か"の体内に引きずり込まれていくような恐怖。
下半身の感覚はもうほとんどしない。
眠気のようなものが、すでに8割ほど意識を蝕んでいる。
“怖い”
それが残りの意識を占めていた。
“怖い”―――怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い―――
―――い、やだ……
火「鳴海さんッッ!!!」
『―――っ』
瞬間、温かいものが左胸に流れ込んできた。
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