宵の明星、蜂は飛ぶ

□夜想譚
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――精霊になれなかった者。



幸せだった日常に、小さな小さなヒビが入った気がした。

















あの話のあと、ラグはユウサリ北西部の町、ハニー・ウォーターズに行くことになったらしい。
あの町は反政府派が多いから、少し心配だ。

((あたしも行けたらなー……))

ゴーシュの行方の手掛かりが見つかるかもしれないのだ。
気にならないはずがない。
それでもついて行きたいと我が儘を言わなかったのは、“彼”のことがあるからだ。


クレンはノアの鼻筋を一撫ですると、その場待機を命じる。

『ちょっと待っててね、ノア』

――ヴルルル……



それからクレンは、軽く息を吸って館長室の扉をノックした。


コンコン


『――ロイド、いる?』

いいよ、入って。
扉を挟んでくぐもったロイドの声が聞こえ、クレンはいつもの騒々しさからかけ離れた動作でノブをひねった。

書類の塔に囲まれ、憂鬱そうな顔をしていたロイドが、クレンを目に留めてにっこりと微笑む。

「やぁ、クレン」

『ぷふっ、やぁロイド』

悪戯に返事を返せば、ロイドはそんなやり取りですら至福だと言わんばかりに目を細めた。

『……その量、出直した方がよかった?』

量とは勿論、書類の塔のこと。

「ん〜、アリア君が手伝ってくれれば何の問題もないんだけどなあ」

『何言ってんの、アリアが可哀そうでしょ。ただでさえどっかのダメ館長の放浪癖に振り回されてるんだから!』

「ははは、人聞き悪いな。情報収集だよ」



そう、情報収集。



クレンは帽子をとり、ジャケットと一緒に来客用のソファへ投げ置く。
ぅーんと背筋を伸ばすと、どこかの骨がコキッと音を立てた。


「……何か、あったのかな?」

ペンを走らせるのを止めて、ロイドは椅子から立ち上がるとソファまで来てクレンのジャケットへと手を伸ばす。
皺にならないように丁寧に畳むのを見ていると、

「こっちへおいで」

『うん』



黙ってロイドの横に座ると、ほっと“こころ”が安らぐのを感じた。



「……それで?」

話を促されるままに、クレンは今朝あった出来事をとつとつと語った。

『――それで“精霊になれなかった者”ってフレーズが出てきて、』

「ああ、そういうことか」


ロイドはどこか掴めない表情を浮かべてクレンの頭を撫でる。


『忘れる筈がないんだけど、それでもヤなことをはっきり思い出しちゃってさ。
こんな話ロイドにはしたくないんだけど、やっぱりロイドしかいなくて……』



珍しく俯きがちのクレン。
輪っかに結った金色の髪まで、心なしかくすんで見える。





「…………」






沈黙は、思いのほか心地よかった。

その心地よさの中で、ロイドはワイシャツに隠されたクレンの細い腕を自分の方へと引っ張った。



『のっ、と……わ!』



些か色気に欠ける声が上がるが、どんな艶やかな声よりも
クレンの声が一等好きだ。


引っ張られるままに彼の腕の中に飛び込んでしまったクレンは、その丸い目をぱちくりと瞬かせる。

『……ロイド?』

「うん?」

『いや、うんじゃなくて』

ワイシャツ越しに伝わる彼の掌の温度。
高くもなく、低くもない。
クレンが一番好きな、それ。


鼓動がいやに静かで、

視界がやけに鮮明で、

嗅覚が彼の匂いを伝えてくる。



甘えてはイケナイ。
甘えてはイケナイ。



必死に塞き止める感情の奔流は、クレンの大切なものを奪い去ってしまうから。

強く在らねば、道を見失ってしまいそうだから。

“こころ”まで盲目になってしまったら、本当に光を失ったときに困るだけだ。






「たまには、弱くなってもいいんだよ」





滅多に零れない蜜は、あまりにも甘すぎる。





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