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□彼女の膝で本を読む
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目の前の旨そうな肉にカプリと食らいついたら、びくりと頭が跳ねるほどの衝撃とともに「ぎゃああ!」頭上から悲鳴が上がった。
当たり前か。食いついた先はまだ皿の上にも乗っていないどころか未調理なものだったのだから。生身の足に、未調理というのも失礼な話かもしれないが。

「何すんの!」

「うまそうだったからな」

怒りというより驚きで大きくなった声に素直に理由を答えてやる。
齧り付いたのは一瞬だけで、悲鳴があがるころには止めていたのだが、そこにはきれいな歯型が残った。そこは思いの外デリケートな場所だったらしい。力の加減を誤った。
なんとかそこから振り落とされることも退けられることもなくいられたのを良いことに、目の前の赤く繋がった点線を親指でなぞる。

「信じらんない…なんなのマルコ、もう」

意味わかんないよ。そう続けて溜息を吐かれた。
こちらの意外過ぎる突飛な行動は、こいつにとって驚きのあとは脱力しか与えなかったようだ。
いつもなら自分がアンの方から突然突きつけられる何かしらで驚かされては頭をかかえ、時に怒ったりもするのだが、逆の立場になるとこいつは俺を簡単に許してくれた。
意外に深かったこの娘の懐の程に感心していると、元の位置に戻って横たえた頭に触れられた。さらりと髪を撫でられる感触が心地よく、忘れられていた手元の本を構えなおして横になったままページに視線を戻そうとすれば。

「もしかしてマルコ…おなかすいたの?」

「………」

ブハッ!
目の前の活字へと戻りかけた意識の中で、そっと声掛けられた言葉の意味を反芻して、思わず吹き出した。
自分の行動はこの娘をかなり戸惑わせたようだ。自分の経験の中で原因を探り導き出た答えがそれかと思うと、肩を揺らすしかなかった。

「くっ…、はっはっは!」

「こらー、何か言えー」

いつまでも笑ったまま反応を返さないことに焦れたアンが、さっきまで撫で梳いていた髪をぐしゃぐしゃと掻き乱してきた。

「くっくっ、ゲホッ」

「もう!」

それでもお構いなしにそのまま膝の上でせき込みながらも笑う。
こちらよりも懐の深いアンは、俺を膝から投げ出すような乱暴なことはしなかった。

ここからじゃあ見えないが、おそらく今のアンの顔は唇をつんと突き出し頬をぷくりと膨らませた表情になっているのだろうと想像する。見えなくてもわかる。長くはないが短くもない年月をともに過ごしているのだ。こいつの癖や仕草はいくつも知っているし、こいつも俺の癖を分かっているのだろう。

さっきまで手にしていた本は栞を挟む前に閉じてしまったまま、すぐそばに投げ出されている。
読書はとうに諦めている。もともとこいつの膝を借りる口実だったのだから別に構わなかった。

はあっ、と長い息を吐いて呼吸を整える。そろそろ落ち着かなければ、いよいよ臍を曲げられてしまっては困る。居心地のよいそこから引き剥がされるように体を起こした。
アンの顔を見れば予想していた通りの表情をしている。その事にまたも口角が上がりそうになるのを、目の前の尖った唇に口付けることでごまかした。

「飯、食いに行くか」

離れ際にそんな提案をすれば、キスで丸くなった瞳に加え、眉までひょこんと持ち上がる。
今日の飯の用意は、と確認も追加する。大丈夫、というジェスチャーのあと首が横に傾いた。

「いいけど…どしたの?」

「駅前の焼肉屋が安くなる日だったろい」

「…ああ! そういや29日だもんね。やった! …じゃーちょっと着替えてくる」

部屋着を着ているわけでもないのに、珍しくそんな事を言い出すのを不思議に思って口を開きかけて、止めた。
着替えのある部屋に向かう後ろ姿でも見える内腿には、薄くなりかかっているものの輪郭もしっかりと、先程の噛みあとが残っていたからだ。あー…。

「…好きなだけ食っていいよい」

少しばかりやり過ぎたいたずらの、せめてもの詫びに応えるように、向こうの部屋からはしゃいだ声が届いた。




end.
20121130

1日遅れの11/29のお話。

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