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□『今夜は帰らないで』
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「―――それじゃ、」

見ていたテレビの番組が終わりを告げ出演者が手を振っている。それを機にソファから腰を浮かす。その中腰になった姿勢を引き戻すように腕をガシ、と掴まれ…いや、しがみつかれた。
右腕にアンの全身で抱きつかれると肘の上の辺りにたわわなアンの胸が押し付けられる形になり、形のよい肉がやわらかく潰れた。

「行かないで! 今夜は止まってって! ひとりにしないで!!」

こんな状況で、これほど情熱的な言葉をぶつけられてもけして見た目通りのシチュエーションにはなっておらず、マルコにはため息しか出てこない。

(もう少し、色気のある場面だとたまんねえのによい…)

今のセリフが、マルコの望む通りの意味で言ってくれたものなら、マルコは喜んでアンの求めるままにここに留まるというのに。

一方アンの方はというと、必死である。今夜の平穏がかかった正念場だ。

「さすがにもう遅ェだろうよい。明日また来てやるから、今日はもう大人しく寝ろ」

「だって! 夜中の方がヤツの動きが活発じゃんか!」

敵は夜行性なのだ。動きも素早くどこにでも隠れる身軽さを持つ。それはつまり、どこからでも現れる可能性を持っているわけで。…そんなやつが潜む家で一人、夜をやり過ごせるなんてアンには出来そうにない。



事の発端は、夕刻。
出会ってしまったのだ、イニシャルにGをもつ黒光りしたあいつと。
腕っぷしはそこらの男よりよっぽど強いのに、相手が虫になると普通の女子よりも弱くなってしまうアンは、夕飯の支度にと沸かしていた鍋のガスを切り(ここは自分でも褒めてやりたい)取るもとりあえずアパートを飛び出した。

(神も仏もバル●ンもない…!)

アンは絶望した。
何故ならほんの数日前に、この部屋は害虫駆除の煙を焚いたばかりだったのだから。
そこを何事もなかったように、しかもよりによってアンがひとりのところを狙ってヤツは現れた。
こういうヤツはいつもそれを苦手とする相手の前にばかり出てくる。今回もやっぱり、その法則通りにひょっこり顔を出してきて。目の前をカサカサ、堂々と横切られて悲鳴をあげた。

なまじ害虫駆除をした後の安心があっただけにショックは大きく、その場で気絶しそうになった。頭から血が引いていく冷たい感覚は初めての体験だった。
けれどここで倒れるわけにはいかない(だって顔の上を歩かれた日には…!)。なんとか持ちこたえて携帯電話だけを掴んで玄関から脱出したのだ。

アンとルフィが住む部屋は、知り合いのババアが経営する家賃激安のボロいアパートの一室だ。なので、アンたちの住む部屋ひとつがバル●ンを焚いたところでほぼ効果など無いに等しいのだが、アンはそれを知らなかった。

「…う、ひっく…グズ……ふ、ま、マルコぉ……っく」

「どうしたよいっ!? アン!?」

とにかく、その後は泣きながらマルコに電話した。
伝えられた時間よりもずっと早くに駆け付けてくれた姿に安堵して、往来でその胸に顔を埋めて泣いたのはつい数時間前のことだ。
マルコはアンが虫を極端に苦手とすることをこの時初めて知った。
事情を聞いてたかがゴ(以下略)一匹での呼び出しかとたいそう脱力もしたが、あのアンに泣くほど苦手なものがあったのかと非常に驚き、普段の彼女から想像もつかないアンのか弱すぎる様子に絆されそのまま夕飯も一緒にとり、こんな時間までずっと付き添ってやった。

とは言え付き合ってる訳でもない男女がこれ以上遅い時間に二人きりでいるわけにはいかない。
ましてやマルコはアンに(秘密にしてはいるものの)特別な感情を持っているわけで、正直我慢も限界だと思っている。
おっさんだって男である。情けない話だが、父娘ほど年の離れたこの女に本気で惚れているから困っている。

高校を卒業したばかりの娘相手に、言い方は妙だが別にロリコンの趣味はない。どころかむしろ自分のストライクゾーンは、アンよりもずっと年上の層だ。
もっとこう…こいつとはかけ離れたタイプの。それなのに何故だか恋に落ちてしまったのだ。

そんなアンが他でもない自分を頼ってきた。泣きながら一番に自分のところに連絡をしてきたのだ。
駆けつけたマルコの姿に安堵の表情を浮かべる様子は残業を全て同僚に押し付けてきた甲斐があったし、胸の中で安心して泣く姿には感極まってうち震えた。

ようやく落ち着いたアンをなんとか宥め部屋に入り、付き添うこと数時間。マルコにとってはちょっとした我慢大会だった。

それがたとえゴ(略)のせいであったとしても、始終マルコの側を離れず時折すがるような眼差しで見上げてこられれば堪らない。
今まで信じていた己の鉄の理性が焼き切れそうになる危機感に焦りを感じていた。
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