濃い赤の飴玉を舌に転がす。
 近道をしようと通り抜けるだけのつもりだった公園のベンチに、気づけば腰を下ろしていた。年月と共に柔らかく朽ちたベンチはじんわりと温かく、陽光は起きぬけのブランケットのように肌を包みこみ、心地よい静けさと共に、私の脳を甘やかす。
 そよ風に微かに混じる芳香は、この季節だけここを彩る桜の香りだ。口の中で溶けていく甘酸っぱい人工の風味が鼻を抜けると、そのはかない香りはあえなく掻き消されていった。
 何をするでもなくぼんやりとベンチに座っている私の前を、子連れの主婦や犬を連れた老人たちが和やかに通り過ぎてゆく。絵に描いたような平和な昼下がりの風景。私が描く世界とは対照的な、眩いばかりの暖色に満ちた情景だ。
 私は額に手をかざし、目を細めた。
 東屋のような屋根があるわけでも、木陰になっているわけでもないベンチには、直射日光が燦々と降り注いでいる。真夏の太陽には程遠いが、それでも頭頂部の髪の毛に触れるとかなりの熱を持っていた。どこか木陰になっているベンチに移ろうかと視線をめぐらしていると、どこからか音が聞こえた。
 ギターの音だ。
 音楽に関しては門外漢の私でも、その音は耳に引っかかった。お世辞にもきれいとは言えない濁ってぼやけた音の重なりに、男のハミングが混じる。音楽と言うにはあまりに素朴な代物だったが、私は何とはなしにその音を追った。ぎこちなく軋む音に、歌詞が乗る。美しい声だった。繊細で澄んでいて、けれど透明ではない、数多の感情に色づいた声。控えめな声量で囁くように歌う声が蜘蛛の糸のように脳に絡みついて覆い尽くしていく。歌のメロディがギターの音に絡む。歌と音が一体になって一篇の物語をこの空間に構成する。その入り口を垣間見たような心地になった。それはさながら現代の吟遊詩人のような、浮世離れした雰囲気を纏った青年だった。
「そのギター、拾ったの?」
「……ん? うん、さっき。捨てられてたから」
 青年が抱えるギターは薄汚れ、弦も錆びているようだった。おそらくチューニングも正確ではないのだろう。
「お兄さん、歌うまいね」
「ありがと」
「プロ?」
「まさか」
 青年は吹き出した。
「そうなんだ。もったいない」
 素人の私が偉そうに言うことではないのだが、この美しい声を、小さなベンチでの古ぼけたギターの弾き語りだけで終わらせてしまうのはとても惜しいことのように思えた。
「そっか。嬉しいな」
「歌、好きなんだ」
「好きなんじゃない。命だよ」
 青年はあっさりと言った。
 ノーミュージック、ノーライフ。
 この世界でない世界を知っている人の目だ。自分の内なる現実を見つめている目だ。
 私が惹かれる人間が共通して持っている、どれ一つとして同じ色合いではない、きらきらとした目。
 勝手に隣に腰を下ろした私に頓着する様子もなく、むしろ私の存在など意識から消えてしまったかのように、青年はまたギターを掻き鳴らし始めた。優しく愛を囁くように歌っていた声は次第に伸びやかに大きくなり、感情的でどこか冷たい、切なげでいて酷く優しい音楽は、滂沱と溢れる無数の感情の雫となり、全身を打った。鼓動のように強く脈打つリズムが私の心に入り込んで激しく震わせる。
 何故だか、周囲には私たち以外誰もいなかった。さっきまで行き交っていたはずの人影はひとつも見当たらない。ひらけた空間に響き渡っているはずの青年の声は、私の耳にしか届いていない気がした。それが惜しくもあり、その一方で、私だけがこの音を独占しているという優越感もあった。
 やがて、青年は唐突に歌をやめた。
 聴き入っていたところに水を差されて思わず勢いよく振り向いた私に、青年は古ぼけたギターを、ずいと差し出してきた。
「え? 何?」
「これ、聴いてくれたお礼にあげるよ」
「……嘘だ。私に処分させるつもりでしょ」
「ばれたか」
 青年は悪びれもなく認めた。
「俺の代わりに葬っておいてよ。お疲れ様ってさ」
思わず受け取ってしまった私の手の中のギターにはもう興味をなくしてしまったかのように、あまりにあっさりした動作で立ち去ろうとする青年を呼び止めた。
「何?」
「これ、聴かせてくれたお礼にあげるよ」
 服のポケットに入っていた飴玉の袋を差し出した。
 青年はぱちくりと目を瞬かせて、それを受け取った。ちゃちなビニールの包装を破ると、赤い飴玉が顔を出す。
「ありがと。何味?」
「チェリー」
 へえ、と適当な相槌をうって、飴玉を指先に摘むと、青年はそれを鼻先に持っていってまじまじと見つめた。
「真っ赤だ」





 自宅に戻った私を待っていたのはただの現実だけだった。ほどほどに片付いて、ほどほどに散らかった部屋で、誰かが待っていてくれるというわけでもない。いつもの習慣で、リビングに入るとまずパソコンを起動し、結局持って帰って来てしまった古びたギターを床に置いた。大して広くもない部屋にギターを置いておくスペースはない。いや、どこかの隙間に押し込めば入る場所はあるが、どの場所も置き場所としてはしっくりこない。もとより、飾るには少々汚すぎるという問題もあるのだが。どうしよう、とギターを眺めて途方に暮れる。捨ててしまえば早いのだろうが、なんとなく捨てづらい。果たしてギターの正しい『葬り方』などあるのだろうか。
 もやもやと悩みながら、とりあえずシャワーを浴びて着がえ、今日の夜と明日の朝からの予定を頭の中でだらだらと組み立てる。とりたてていつもと変化はない。パソコンに向かっているうちに今日が終わり、朝から仕事に出かけるだけだ。
「ああ、そうだった」
 ふと壁に掛けっぱなしだった礼服が目に入り、独り言を呟いた。
 仕舞う前にクリーニングに出しておこうと思っていたのだ。忘れないうちに持っていって、早く仕舞ってしまおう。もう当分使うことがないようにと願って。
 この真っ黒な礼服を着たのは、もう遥か昔のことのように感じるが、つい数日前のことだ。
 高校時代の同級生が急逝したとの知らせを受けた。特別仲が良かったわけではない。特段記憶に残るほどではない他愛ない会話を交わした記憶のある程度の間柄だったが、私はその知らせを受け取り、仕事を急遽休んで葬儀会場へ向かったのだった。
 同級生ということは、私と同い年ということだ。自分がいつか死ぬことは理解していても、当然明日もその先も生きていくのだと疑いもしなかっただろう。死ぬにはあまりに若い年だった。家族の心痛は計り知れない。ひっそりと旅立つのは寂しかろうと慮った両親のはからいで、葬儀場は思ったより大きく、同郷の知人たちが多く出席していた。
 その中に、意外な顔を見つけた。いや、そう意外でもないだろうか。どんな表情を作ったものか一瞬迷い、結局は無表情のまま、軽く手を上げて近づいてくる男の顔を眺めていた。
「久しぶり」
 だらしないわけではないのに、どことなく着崩れて見える礼服が、その男にはその崩れ具合さえしっくり馴染んで見える。安っぽい言葉を借りるなら、他の人間とはオーラが違う。セピア色の景色の中に、そこだけがモノクロームになっているような、決して派手な目立ち方はしない異質感があった。それは私がこの男と初めて会った高校生の頃から変わらない。不思議な色を湛えたこの目も。その男は、どこにいても浮いて見える。
 テーブルがずらりと並んだ広間で、見知った顔、見知らぬ顔が、各々グループを作って、控えめに思い出話に花を咲かせていた。
 何か用があったわけでもないが、端のテーブルでその男と向かい合って座った。
「元気?」
「まあまあ」
「まだ飽きもせずに一銭にもならない音楽ばっかり作ってるの?」
「そっちこそ、懲りずに奇妙な絵ばかり描いてるんだろう」
 挨拶代わりの軽口に、互いの顔を見合わせて静かに笑った。
この男は、私が絵を描いていることを知っている数少ない人間のひとりだ。絵を描くことは、私が物心ついてからずっと続けてきた一番長い趣味だ。けれど、年を重ねるうちに、自分の描いた絵を人に見せることはなくなっていき、最近では趣味で絵を描くということすら話さなくなった。別に恥ずべきことだとは微塵も思っていないが、何となく気恥かしいものがあったからだろう。匿名で絵だけを見られるならまだしも、自分の素顔や背景を知っている人間に絵を見られると、自分の心を覗き見られているような居た堪れなさを感じる。
「交通事故だってな」
 緑茶をすすりながら、男がぼそりと言った。
「飛びだしてきた猫を避けようとして、自分が」
 対面できたのは遺影の写真だけだった。無数の花に囲まれた晴れやかな笑顔の下の棺の窓は閉ざされたままだった。
「悼むってのは苦手だな。真っ白になる」
 そう言う男の表情はいつもの気だるげな無表情のままだったが、彼なりに色々と思う所があるのだろう。ぽつりと言って、男は目を伏せた。ぼんやりと宙を眺めているように見えて、本当はもっと別の何かを見ているのか、いや、探しているのか。
 血管の浮いた男の手の甲が目に入った。人差し指と中指が所在なさげにテーブルの上に投げ出されている。音楽を奏で続けてきた手には見覚えのない皺が増えた。テーブルの上で組んだ私の手の甲にも同じような皺が浮いている。互いに年をとったのだ。年をとれば、それだけ多くのものを失う。今までたくさん失ってきて、またひとつ失った。この皺は喪失の数だけ刻まれていくものだろうか。だって、幸せそうな人はいつまでもきれいな肌をしている。なんて、そんな穿った考えばかりするから心労が増えるのだ。数え切れない喪失を見送ってきたこの場所に、卑屈な心を咎められている気がした。
「あんたが来てるとは思わなかった」
 ふと言葉がぽつりと零れた。
「そうか?」
「うん」
「ここに来たら、お前も来てる気がしたから」
「……え?」
 私はぽかんと男の顔を見つめた。
「顔合わす機会なんかそうそうないしな」
 最後にこの男に会ったのはいつだろう。一年、いや、二年前か? その前はもっと間があった気がする。
「また、絵、描いてくれよ」
「……私はもう、人前に出すための絵は描かないって言ったはずだけど」
「つれないこと言うなよ。今度連絡するから」
 結局それが目的でここにきたのだろうか。
 憮然として沈黙する私に、男はへらへらとごまかすように笑った。どうにも居心地の悪い笑い方だった。
「みんな、元気?」
 話題を変える問いを投げてみると、妙な笑い顔はあっさり消えて、掴みどころのない無表情にのった薄い笑みだけが残った。
「ああ、元気」
 それが誰のことを指したのか確かめることもなく、男は反射のように答えた。
「新しい曲、聴いたよ。順調?」
「ぼちぼちだな」
「あの子は、元気?」
「多分な」
 答える声は不機嫌そうというわけではないが、どこか上の空だった。
 もうこの男はバンド活動をしたくないのではないかとずっと思っていた。だから、また新しくバンドを始めたと知って、心底驚いたと同時に、ほっとした。世間体を考えるなら、いい年をした男が懲りずにまた本格的にバンド活動を始めるなどと言い出したら止めるべきなのだろうが、この男にそんな世間の規範などを説く気にはならない。
 私は、この男の作る『世界』に惚れているのだ。彼の作る音楽に触れた瞬間から、ずっと。
「うまくいくといいね」
 私なりに応援の気持ちを込めて言った言葉に、男は何とも言えない目をして応えた。
「そうだな。うまくいくってのが何なのか、よくわかんなくなってきたけど、まあ、うまくいくといいな」
 その時彼は何を思い浮かべたのだろう。
 その後しばらく他愛もない近況報告や思い出話を交わし、「ちょっと煙草吸ってくる」と男は言って席を外した。そして結局そのまま帰って来なかった。
 彼からの連絡はまだ来ない。本当に来るのかどうかもわからない。来ないならば別に来なくても構わないと諦観しながら、どこかで待っている自分がいることにも気づいていた。
 一人きりの部屋で私はコーヒーを片手にパソコンに向き合い、文書作成ソフトを立ち上げた。
 あの男は、私が絵を描くことを知っている。だが、文章を書くことは知らない。文章は、絵よりも如実に私の心を暴き出す。エッセイや自伝ではないただの小説でも、登場人物たちが語る思い、見る景色、下す決断、全てが私の心の断片だ。
 私がこうして隠し秘めているのは、結局、自分の心を誰にも開け渡したくないからなのだろう。心の拠り所を表現に求めつつ、それを独り占めするのは、結局のところ、誰ともそれを共有したくないからなのだろう。
 だからこそ、私は憧れる。自分の心を、音に、言葉に、映像に――何でもいい、自分のもつ最大の表現に託して人と共有することのできる人々に。
 私が今、彼らをモデルにした小説を書いていると知ったら、彼らはどんな顔をするのだろう。








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