小説

□NORAR
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「私、ノラ。あなたは?」
「……教えない」
 その人は、何度訊いても名前を教えてくれなかった。あの手この手で聞き出そうとする私の攻撃を頑なにかわし続けた。
 うっとうしがられてはいるが、少なくとも敵とは思われていない。それをいいことに私はその人の家に入り浸った。幸い暇は見つけるまでもなく余るほどあったし、いつも当然のような顔をしていたら口実はわざわざ作る必要もなくなった。
 その人は私より数十年も年下だというのに、大人びて格好よくてミステリアスだった。言葉数は多くないが、私の言葉には何かしらの答えをくれる。その低めの声は落ち着いていて耳に心地よい。海風が窓を撫でる音を思わせる、自然の音の一部みたいな声はすぐにその空間に馴染んでいて、私の高い声だけが世界に紛れ込んだ異物のようだった。
「ねえ、あなたはどこから来たの?」
「……遠いところ」
「そことここは、どっちがいい所?」
「……こっちの方がいい」
「どうして?」
「僕のことばかり訊くのはやめてくれないかなあ」
「でもあなたは私のことなにも訊いてこないじゃない」
 言い返されてムッと黙り込む顔は、いつもよりちょっと子供っぽくてかわいかった。
「……僕様」
「は?」
「呼び名がないと不便じゃない?」
「だからって、何なのその変な呼び方」
「嫌なら名前教えてよ。ニックネームでもいいよ」
「……」
「……僕様」
 返事はない。無視されているようだ。
僕「さん」ではよそよそしいし、僕「くん」は語呂が悪い。僕「ちゃん」というキャラではないし、呼び捨てで「僕」では一人称と同じになってしまう。そしてなぜ「僕」を呼び名としてピックアップしたのかというと、その人が「僕」という一人称で自分を呼ぶ時の声音がとても好きだったからだ。
それに、私自身がその人を「様」と呼ぶのが、思いの外楽しくて気に入ってしまったというのもある。
私は僕様に憧れを抱いていたのだ。
「僕様は、恋ってするの?」
 とても嫌そうな顔をされた。が、怯まずに素知らぬ顔で続ける。
「過去でも、現在でも、未来でも」
「……そんなもの興味ない」
「そうなの?」
「この世界に繁殖なんてもう必要ないんだ」
「……繁殖じゃなくて、恋は?」
「……同じことだよ」
「違うよ」
「……」
 僕様はとてもとても嫌そうな顔をして黙り込んだ。仕方なく私も黙った。
「帰れば」
「……じゃあ、今日は帰るよ」
「『今日は』?」
「明日また来るから、別の話しよう」
「……」
「また明日ね」
 敵と思われなくとも嫌われることは有り得るのだ。そのことを肝に銘じておかなければ。
 僕様はひとりの時間が好きなのだろうか。淡々と時を過ごす姿は無頼人の風情を漂わせている。一人で平気な人の姿は、本人よりも近くにいる他人を寂しい気持ちにさせるのだと、初めて気づいた。そして私が僕様に干渉して寂しさを埋めようとすることは、僕様がひとりでいる権利を侵害することを意味しているのだ。
 次の日にまた僕様のところへいくと、僕様は古いベッドに横になって目を閉じていた。
「ごめんね」
「ん」
 会話はそれだけだった。
 
 


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