小説

□憶い歌
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「とき」
「ん?」
 起きてたのか、というのと、久々に柊の方から声をかけてきたということに少し驚きつつ、何食わぬ顔で返事をした。
「……俺はあの人の代わりになりたいわけじゃないけど、ずっと憧れてたんだよ」
「……」
 何をいきなり言い出すのか、戸惑いを隠せないまま、「そうか」と意味のない相槌を打った。
 柊はゆっくりと起き上がり、ぐしゃぐしゃになった髪を手櫛で雑に整えて、ベッドから下りた。よくわからないままそれを目で追う。柊は時貴のパソコンを立ち上げ、しばらく何か操作していたかと思うと、時貴に手招きをした。
 画面に映し出された五線譜と、十六小節分のメロディ。それを目でなぞり、頭の中で音を追う。
懐かしい音が聞こえた。
「……お前、なんでこれがここにあるんだよ」
 パソコンが壊れたり、買い替えたり、膨大なデータの整理が追いつかなくなってどこかに紛れこんでしまって、もうどこにいったかわからなくなっていた古い曲のメロディの一部だった。
「憶えてる?」
「ああ」
「これを紆多さんがくれた」
「……くれた?」
「うん」
「よくわからんけど」
 また変な夢でも見たのだろうかと柊の顔を覗きこんでみても、その表情は平静で、どこかがおかしいような様子はない。むしろ情緒不安定な時にはない、冷静に物事を見据える真摯な目だった。
じっと柊は時貴の目を見返した。どこか縋るような、探るような、何かを待つような目で、真っ直ぐに時貴を見る。ごまかそうとか、はぐらかそうとか、そんなことを考えること自体無駄だと悟った。ここで目を逸らすことは裏切りだと、直感的に思った。
「……お前、これ歌う気ある?」
 今まで誰にも見せなかった。もうどこにも出す気はなかった。普段はすっかり忘れて思い出しもしないような、色褪せて擦れかけた思い出のように記憶の深いところに大切に埋めておいた曲が、雪解け水のように突然解けて溢れ出した。
 







  ・・・








 洵が出会ってから今までで一番かと思うくらい気持ち悪い。道行く人が長袖の服を着ている中、バンドのツアーグッズのTシャツ一枚にタオルを首にかけたスタイルで堂々と待ち合わせ場所に現れ、会場まで行く道すがら、終始にやけながら嬉しそうに寿々にINgearについて語り続けている。人で溢れかえる駅構内でも電車の中でもお構いなしだ。最初は少し静かにしろと注意していたが効果はなく、結局諦めて適当に相槌を打って聞き流していた。
 大好きなアロンさんの復帰がそれだけ嬉しいのだろう。どうしてそこまで夢中になれるのか不思議だが、人でも物でもそこまで好きになれるのはすごいことだと思う。
「そういえば、そろそろ寿々の誕生日だよね」
 ひとしきり語ってひと段落ついたのか、洵の話がINgearの話題から逸れた。
 そんな話になるとは思っておらず、寿々はきょとんと瞬きをした。
「おぼえてたんだ」
「今月だったよなーと思って。何日だっけ?」
「明日」
「ええ! 急だな」
「そんなこと言われても」
 別に昨日今日決まったわけでもないのに急などと言われても困る。どうせ今日のライブのことで頭がいっぱいだろうし、人の誕生日を逐一把握しているほどマメなタイプではないのはわかっていたことだから、端から期待はしていない。今月誕生日だと憶えていてくれただけでも驚きだ。
「何かいる?」
「別に」
「まあまあ、そう遠慮せずに」
「じゃあ新しいベース。この前店で見た黒いやつ」
「うーん、ちょっと予算オーバーかなー」
 もちろん冗談だ。うん十万出せとはさすがに言わない。
「じゃあ今日終わったらケーキ買って帰ろっか」
 漫画のように手をぽん、と叩いて洵が提案する。多分その能天気な頭の中では電球が光っている。
 ケーキか、と頭の中で呟いた。バースデーケーキなんてものを最後に食べたのは一体何年前のことだろう。
「ホール食いしたい」
「それはまた大胆な」
「直径15センチ以上のやつね。いちごとメロンのってるのがいい」
「え、そんなに大きいの? 本気で食べるの? ていうか俺の分は?」
「上の板チョコと砂糖の人形あげるから」
「やだよあの砂糖のやつおいしくないから嫌い」
「じゃあチョコだけあげるから」
「俺もケーキ食べたいよ。一緒に食べて祝おうよ。ちゃんとハッピーバースデーってチョコに書いてもらって」
「じゃあ洵は四分の一ね」
「駄目、はんぶんこ」
「けち」
「どっちがだよー」
 洵は子どもっぽく唇を尖らせる。不満げなことを言いながらも顔は笑っていた。寿々も笑っていた。




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